北国往還、犀川の渡しは古くは 「市村の渡し」 と云われ、犀川左岸の市村(長野市若里)と右岸の綱島村(長野市綱島)間の舟渡しでありました。
慶長年間、裾花川の瀬替えと北国街道丹波島宿開設(1611)とその後の犀川の洪水・増水で流れが変わり、上流に移りこの地が舟渡し(綱渡し)の舟着場になりました。明治に至る260有余年、流れ早き犀川の渡しは難所といわれ、犀川の水嵩が増すと年平均60日もの川留めがあり、「丹波島の渡し」 は北国街道の多くの歴史を刻んできました。
明治以降、北国街道は国道5号線、さらに10号線となり、昭和8年(1933)に国道18号線が新設されるまで主要国道でありました。
また舟渡しは舟橋(1873)となり、木橋(1890)にかわり、二世、三世と続き、昭和7年(1932)鋼橋となり、そして昭和61年(1986)現在の丹波島橋となりました。
平成22年は木橋第一世が、当時の区民128名の連名で架橋し、民営丹波島橋が開通して120年になります。そこで丹波島区は北国街道・丹波島宿開設400年の歴史と先人達の足跡を偲び、丹波島区民の篤志により記念碑を建立することにいたしました。
碑文は小林一茶の文政句帖、十返舎一九は善光寺道中膝栗毛より選句しました。
渡し跡付近の犀川
渡し碑裏面の解説
丹波島の渡し碑
渡しのレリーフ
小林一茶
まっすぐに かすみたもうや善光寺
十辺舎一九
大江山ならねと酒の鬼殺し 売る家もある丹波島かな