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善光寺 <参道から本堂まで>


平成27年4月3日(金) ☁   長野駅 ~ 善光寺   <直線約2.0㎞>
善光寺は、一光三尊阿弥陀如来を御本尊として創建以来約1,400年の長きに亘り、人々の心の拠り所として深く広い信仰を集めてきた寺院である。中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中に立っている。御開帳で見られるご本尊は前立本尊といわれるもので、本来のご本尊は絶対秘仏となっている。また秘仏のご本尊は、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれている。
善光寺縁起によると、西暦552年に百済の聖明王から献上された一光三尊像が排仏派(物部氏)の手により、難波の堀江に投じられていたのを、信濃の人「本田善光」が背負って招来し、皇極天皇の御発願により、642年に善光寺が創建されたという。

長野駅前の如是姫観音像 春日燈籠 常夜燈 丁石
昔、天竺(インド)の毘舎離国に月蓋という長者の一人娘の如是姫が、流行り病に罹りどんな治療をしても治らなかったため、釈迦におすがりしたところ、釈迦は西に向かい南無阿弥陀仏と唱えるように諭され、その教えに従い南無阿弥陀仏と唱えると、阿弥陀様と弟子の観世音と大勢至の三像が西の門の上に現れ光を放ち、その光が如是姫の枕元に届くと病気は回復したという。この如是姫観音像は善光寺を向いて香華を捧げている姿である。 長野駅前の交差点に参道と刻まれた春日燈籠が建っている。
ここから善光寺まで1,800mと刻まれている。
常夜燈モニュメントの直ぐ先にお花の柱と木製の常夜燈が建っている。 長野駅から善光寺まで丁石という里程道標が歩道上に建っており、長野駅前が18丁で善光寺までこの丁石が続いている。
丁石の形はそれぞれ違っている。一丁は約109mである。

善光寺道標 西光寺 裁松院 十念寺
長野駅前から真っ直ぐ進むと末広町交差点手前に、大きな善光寺参道と書かれた道標が建っている。
この先右手を北上するのが参道で、歩道上には小林一茶の句碑が18か所に建っているというが、気が付いたのは7碑で、他に何丸の句碑が3碑あった。
かるかや山前交差点の先右手に善光寺七福神の西光寺がある。
西光寺は正治元年(1199)善光寺如来に導かれて、高野山から信濃の地に下った苅萱道心が、この地に草庵を建立したのが始まりといわれる。御本尊は、開祖苅萱道心とその子信照
坊道念上人(幼名石童丸)が刻んだ2体の親子地蔵尊である。
ホテルJAJシティ長野の手前に曹洞宗の裁松院がある。
入ると正面に観音堂、右手に子育て赤地蔵尊、戸隠の尾上(おがみ)から移された出世不動、嶋の天神などがある。
問御所町交差点の先左手に紫雲山頼朝院十念寺がある。
頼朝公が善光寺へ参拝の折、その行列が此の地に差し掛かると、俄かに紫の雲がたなびき、一光三尊の阿弥陀如来が現れ、頼朝公に直接十遍の念仏をお授けしたという。このため頼朝公は此の地を聖地と定め、一宇を建立し、紫雲山頼朝院十念寺と名付けたと伝えられている。
境内には秋葉神社があり、社殿前に善光寺七福神の福禄寿がある。

聖火台モニュメント 往生院 秋葉神社 北野文芸座
十念寺の先の参道右手に平成10年(1998)に開催された長野オリンピック冬季大会の聖火台のモニュメントが建っている。
聖火台は菊竹清文氏により製作されたもので、「かがり火」 をモチーフにしたものである。
参道右手の権堂アーケード入口近くに往生院がある。往生院は大同2年(807)弘法大師が善光寺参詣の折り、ここに寶乗寺を創建したのが始まりである。建久8年(1197)源頼朝が善光寺再建を発願し、その時に善光寺如来を往生院に移して仮堂とた。仮の御堂を権堂と言うことからこの辺りを権堂町と呼ぶようになったという。境内には県内最古の弁財天がある。 権堂のアーケードを権堂駅方向に進むと左手に秋葉神社がある。アーケード脇には勢獅子(きおいじし)といわれる30数㎏の獅子頭が置かれている。
境内奥には、料理・包丁の神を祀る四条霊社があり、その傍らに国定忠治の墓がある。
参道左手に歌舞伎座風の外環の北野文芸座がある。日本瓦を使用した大屋根と曲線が美しい 「唐破風」 と呼ばれる銅板葺きの屋根を備えている。

本願寺長野別院 熊野神社 大門町 西方寺
北野文芸座の先左手に浄土真宗本願寺派(通称お西さん)の伝道教化センターとも言われる本願寺長野別院がある。
境内には、親鸞聖人の大きな銅像が建っている。
大門南交差点を過ぎると左手に熊野神社の社殿がある。大門町の人々の家内安全・商売繁盛・開運・厄除けとして祀られた守護神である。社前には宝暦9年(1759)の三猿を刻んだ庚申塔が建っている。 坂道が急になる大門交差点手前には白壁で統一された土蔵風のお店が並んでいる。
この先の大門交差点には文政8年(1825)の常夜燈が参道両脇に建っている。
大門町の交差点を左折すると善光寺の仮堂となった安養山極楽院西方寺がある。
西方寺の開山は正治元年(1199)に浄土宗の開祖法然上人が善光寺を訪れたときに、現在の権堂の往生院の地に開創したと伝えられている。ここには善光寺天蓋、観経曼荼羅、釈迦涅槃図などが当時のまま残っている。

善光寺参道口 大本願 むじな地蔵 仁王門
大門町の先の善光寺交差点が参道口で両脇に安政2年(1855)の大きな常夜燈が建っている。
この先は正徳3年(1713)から4年にかけて敷設された約7,000枚の敷石で整備されている。
敷石の参道の左手に大本願がある。
大本願は、善光寺の創建(西暦642年)当初からその歴史を共にしてきた尼僧寺院で、代々の大本願住職尼公上人が善光寺上人として、その伝統を継承している。
大本願には、本誓殿、文殊堂、本理院殿地蔵、芭蕉句碑などがある。
大本願の向かいの百蓮坊の前に童子形の地蔵菩薩と数珠を持ったむじなの像がある。
百蓮坊堂内には、この像の原型となった木造のむじな像が安置されているという。
敷石の参道の中央に見えるのが山号定額山の扁額の架かる仁王門である。仁王門は、宝暦2年(1752)に建立されたが、弘化4年(1847)の善光寺大地震で焼け、その後、元治元年(1864)年に再建されるも、明治24年(1891)の火災でまた焼失した。現在のものは大正7年(1918)に再建されたものである。
ここにある仁王像は、通常の配置とは逆になっている。

延命地蔵菩薩 駒返り橋 濡れ仏 善光寺山門
仁王門をくぐって敷石の参道を進むと左手の松屋旅館の前に延命地蔵尊がある。
脇にある解説によると善光寺本堂は古くは 「如来堂」 と呼ばれ、皇極天皇元年(642)の創建から元禄13年(1700)までは、この場所にあり、この地蔵尊は旧本堂の瑠璃壇の場所に建てられているという。
一対の常夜燈の手前に石橋の駒返り橋がある。
建久8年(1197)源頼朝が善光寺に参詣した折り、馬の蹄が石橋の穴に挟まってしまい、ここから奥は馬を返して徒歩で入ったと言われている。
駒返り橋を渡ると右手に濡れ仏と六地蔵尊が並んでいる。
この濡れ仏は、享保7年(1722)に完成した高さ2.7mの延命地蔵菩薩座像で、日本廻國六十六部供養のため法誉円信が広く施主を募って造立したものである。
寛延3年(1750)に建立された二層入母屋造りの山門である。屋根は、平成14年から19年にかけて行われた平成大修理において、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原されている。
楼上には輪王寺宮筆の 「善光寺」 と書かれた額が掲げられており、また仏像が安置され、参道方向を一望することができる。

回向柱建立 善光寺本堂 常夜燈 供養塔
回向柱とは、卒塔婆の一種で、御開帳期間中に本堂前に立てられる高さ約10mの柱である。前立本尊の御手と 「善の綱」 によって結ばれるため、前立本尊に触るのと同じ御利益があるといわれる。
今日は回向柱を支えている2本の支柱を外す作業が行われた。
建立された回向柱から本堂に向かって白い綱が延びている。
現在まで三百年余にわたって松代から寄進された回向柱は、大名行列や姫行列と共に松代町を練り歩いた後、牛に引かれて善光寺にやって来る。回向柱に触れる参詣者や香炉の煙を浴びる参詣者で本堂前は非常に混雑している。
本堂の周囲には、江戸吉原の三浦屋四郎左衛門が奉納した高尾燈籠をはじめとして多くの常夜燈などがある。 本堂奥から東にかけて無縁仏供養塔、松代藩真田家供養塔、徳川家大奥供養塔、千人塚などの供養塔が建っている。

回向柱 爪彫如来像 善光寺日本忠霊殿
回向柱は、数え年で7年に一度行われる前立本尊御開帳において本堂前に建てられる高さ10mの角塔婆であるが、御開帳が終わるとここに納められ、歴代の回向柱とともに徐々に土に還って行く。 歴代回向柱の近くに小御堂があり、中には如来像が刻まれた石碑が建っている。
この如来像は、浄土真宗の宗祖親鸞聖人が越後から東国への旅の途中、善光寺に百日間逗留の間に爪で彫られたものと伝わっている。
善光寺境内の一番奥まったところに三重塔の善光寺日本忠霊殿がある。戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦争で亡くなった約240万柱の英霊が祀られている。
一階には善光寺ゆかりの宝物を展示する善光寺資料館が併設されている。