多摩川・ドナウ川友好河川記念碑

兵庫島公園案内図

若山牧水歌碑

多摩川の 砂にたんぽぽ 咲くころは われにもおもふ ひとのあれかし

 正平13年(1358)に新田義貞 の子義興(よしおき)が、足利基氏(もとうじ)を討ち、新田家再興をめざして、従者13人と上野(こうずけ)(群馬)より兵を進めた。ところが、多摩川稲城矢口の渡しで、敵の策略とは知らずに、さし向けられた船に乗ってしまう。この時、渡し守りは、かねて仕掛けられた船底の栓を抜き逃げ去った。同時に両岸からは、数百の軍勢が時の声をあげて矢を射かけた。
 兜(かぶと)、よろいの武士たちは身動きがとれない。もはやこれまでと義興は、自害してしまうが、従者たちの中には、対岸まで泳ぎつき、群がる敵兵と戦い自害して果てる者もあった。その中の一人でもある由良兵庫助が流れついたのが、兵庫島の名の起こりという。
 村人たちは、わざわいが起こらないよう供養し、それ以降、不思議なことに、この中州はどんな洪水の時でも、流されることがなかったと伝えられる。
  (世田谷区)

兵庫島の由来

兵庫島から多摩川を望む

野川に架かる兵庫橋