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五日市街道   (砂川七番~五日市)

五日市街道は、青梅街道沿いの東京メトロ丸ノ内線新高円寺駅前からあきる野市を結ぶ道である。この道は徳川家康が江戸入府後、江戸城整備に必要な石工職人が伊奈(五日市より少し東にある集落)から江戸へ行き来するための道として発展したのが始まりで、初期には 「伊奈道」 と呼ばれていた。、その後、檜原から木材・炭などを運ぶために整備され、伊奈と五日市の重要性が逆転し整備発展していった。

平成28年4月20日(水) ☀  砂川七番~五日市  19.2㎞
明日から雨の予報もあるが、今日は朝から快晴で絶好の街道歩きが期待できそうである。昨日の前半は都会の中の道で周辺にはビルが林立していたが、後半は千川上水・玉川上水に沿った緑の多い道であった。今日は多摩川を越え、秋川の近くを通るのどかな道である。

稲荷社 六番組公会堂 流泉寺堂山墓地 阿豆佐味天神社
多摩モノレールの砂川七番駅から街道に出ると直ぐ左手に赤い社の稲荷社がある。
覆屋の中には狛狐を配した赤い小社の稲荷社が安置されている。
稲荷社から程なく右手に六番組公会堂があり、屋根に梵鐘があった。
この梵鐘は災害時に鳴らすものなのか、時を知らせるために鳴らすものなのか・・・。
六番組公会堂の先左手に流泉寺堂山墓地がある。
流泉寺は砂川3番を越えたところにあるので、この先寄って行くことになる。
堂山墓地の入口には、地蔵菩薩・庚申塔・徳本の南無阿弥陀仏名号碑がある。
砂川四番交番前信号を過ぎると右手に阿豆佐味天神社がある。阿豆佐味天神社は、砂川の鎮守として寛永6年(1629)に村山郷殿ヶ谷(現瑞穂町)の延喜式内社阿豆佐味天神社より勧請され、ご祭神は少彦名命、天児屋根命である。境内には蠶影神社・水天宮があり、蚕の天敵が鼠で猫を守り神にしており、絵馬に願いを書いたら猫が帰って来たことから、猫返し神社とも呼ばれている

大山道道標 流泉寺 砂川邸 見影橋
砂川三番信号の左手に街道の名残の大ケヤキがあり、その先を左手に入る道の右手に安政4年(1857)の大山道道標がある。 大山道標から直ぐ先に臨済宗建長寺派の天龍山流泉寺がある。
流泉寺は、福正寺14世東林香玉和尚により開山・創建され、砂川の新田開発に来た人々の菩提寺となった。また明治時代にはここが村の教育の中心となり、今の立川市立第九小学校の前身となった。境内には薬師堂、五百羅漢像などがある。
流泉寺の斜向かいにケヤキの大木の茂る大邸宅がある。
ここは砂川新田の開発指導者で江戸時代に庄屋であった砂川邸である。街道に面して立派な門を構え、邸内には玉川上水の水を個人で導入できたという。
砂川邸の脇から見影公園脇を通って玉川上水へ出ると見影橋がある。
この橋は、江戸時代から架かっている橋で、当時は村を流れる玉川上水の上流から4番目の橋だったので「四ノ橋」と呼ばれていた。また名主の屋敷に近いため「旦那橋」とも呼ばれていた。橋下には名主家当主の名前にちなんだ 「源右衛門分水」の痕跡がある。

残堀橋 玉川上水ふせこし 八雲神社 天王橋
街道に戻って進むと残堀川に架かる残堀橋がある。
残堀川は、かつて砂川三番の見影橋付近を流れており、玉川上水の完成時に天王橋付近につなぎ替えられ、玉川上水の助水として利用された。明治41年(1908)に玉川上水から切り離された。
残堀川を上流に行くと玉川上水と交差する所がある。
玉川上水は上流から流てきて残堀川に突き当たると、サイホンの原理によって残堀川の下で立体交叉して下流で再び顔を出している。これを伏せ越しと言うそうである。
天王橋信号のY字路を左に直進すると突当りに八雲神社がある。
地元では天王様と呼ばれている神社で、狭い境内には文化3年(1806)の秋葉大権現常夜燈、享保20年(1735)の馬頭観音、享保4年(1719)の念佛講と刻まれた地蔵菩薩がある。
八雲神社の隣を流れる玉川上水に架かる天王橋を渡り、渡り詰めから斜め左に延びる街道を進んで行く。

茶畑 旧家 馬頭観音 馬頭観音
街道を進んで西武拝島線のガードをくぐると右手に茶畑が広がっており、奥に立派な家が建っている。 茶畑の斜向かいに旅館と見間違えるような重厚な旧家がある。
土蔵の脇には竹林がある。
旧家の先の松中団地南信号交差点を過ぎると右手の民家の庭先に大正元年(1912)の馬頭観世音碑が建っている。 続いて生活協同組合パルシステムの手前のケヤキの根元に馬頭観世音碑が建っている。

馬頭観音 玉林寺 地蔵尊 旧道口
更に右手にある宮崎造園の入口に明治16年(1883)の馬頭観音があり、妙法馬頭観世音と刻まれている。 宮崎造園の直ぐ先の西砂町宮沢交差点の右角に臨済宗建長寺派の嶺雲山玉林寺がある。玉林寺の創建年代は不詳であるが、、室町時代に殿ヶ谷村(瑞穂町)に創建され、殿ヶ谷新田の菩提寺として元文年間(1736-40)に移転したという。
すっきりした境内には六地蔵尊・十三重塔・慈光観音がある。
西砂町宮沢交差点の左角の塀に風化の激しい地蔵尊が安置されている。 西砂町宮沢交差点の直ぐ先にY字路があり、現在の五日市街道(県道7号線)は左に進むが、旧道の五日市街道は右に進んで行く。

阿豆佐味天神社 林泉寺 みどりの美術館 横田基地前へ
旧道に入って直ぐ右手に阿豆佐味天神社がある。
阿豆佐味天神社は、殿ヶ谷村の人々によって享保年間に拓かれた殿ヶ谷新田の鎮守として、享保3年(1718)頃に村山郷殿ヶ谷(現瑞穂町)の延喜式内社阿豆佐味天神社より勧請されたもので、砂川三番にあった天神社と同じである。境内には稲荷社・愛宕社があり、天神社脇に馬頭観音・庚申塔が街道に面して建っている
阿豆佐味天神社の隣に臨済宗建長寺派の鷹尾山林泉寺がある。
林泉寺は、享保14年(1729)中里新田の菩提寺として創建したという。
境内には大日堂・子育地蔵尊・六地蔵尊がある。
林泉寺の先に小林養樹園が開いたみどりの美術館がある。
農園自体を美術館に変えてしまったというもので、ここには動物などを象った樹木が並んでいる。
旧道は直線の先で横田基地に突き当たる。
かつては真っ直ぐ延びて、反対側の第五ゲート前に繋がっていたのであろうが、左に折れて横田基地を迂回して行く。

福東トモダチ公園 日光橋 第五ゲート前 道標
五日市街道(県道7号線)に出て進んで行くと左手に福東トモダチ公園がある。
この公園は、誰でも仲良く遊んで交流し、みんなが友達になれる施設として2014年1月6日に福東に誕生した。園内には日本との永い友好を記念してアメリカから福生市に贈られたアメリカハナミズキが植えられている。
五日市街道(県道7号線)を進み玉川上水に架かる日光橋を渡り、玉川上水に沿った日光橋公園の遊歩道を通り、その先で水喰土公園に出て迂回することとした。
日光橋は、八王子から直ちに拝島に入り、松山、佐野を通って日光に至る経路(日光往還)であったため、この名が付いた。明治24年7月、煉瓦橋へ架け替えらえたが、その後、昭和25年3月に現在の橋に架け替えられた。
玉川上水緑地を通って横田基地を迂回し、第五ゲート前へ出ると街道の続きが始まる。 街道を進んでJR八高線の砂川街道踏切を渡り、福生市民会館前の坂を下った右手の福生公園の中に自然石の道標がある。
年代は不明であるが、道標には 「右江戸 左きよ戸」 と刻まれており、きよ戸は 「清瀬市の清戸」 である。

牛浜橋 馬頭観音 奥多摩の山並み 牛浜の渡し跡
先に進んでJR青梅線の踏切を渡り、牛浜郵便局を過ぎると玉川上水に架かる牛浜橋がある。明治初期に新政府が東京市の近代化を図るために熊本より石工を招き、二重橋をはじめ木橋を洋風の眼鏡橋に架け替えた。これを見聞した村民が牛浜橋の建設に取り入れ、明治10年12月に建設され、当初 「めがね橋」 と愛称された現在の橋は、昭和52年に架け替えられたものである。 牛浜橋を渡り坂道を下って行くと、多摩川河川敷へ出る手前の道路中央のケヤキの根元に馬頭観音が建っている。 多摩川堤防の上に立つとこれから向かう五日市の奥に聳える奥多摩の山並みが見える。
左に2つ見える頂は、馬頭刈山(884m)・鶴脚山(916m)であり、その尾根を右に進むと大岳山(1266m)である。
多摩川河川敷の中央公園内には、牛浜の渡し跡がある。
牛浜の渡しは、かつて五日市街道を行き交う人馬が多摩川を渡る際に利用した渡し舟で、大正14年(1925)に多摩橋が開通するまで利用されていた。ここには石濱渡津跡碑があり、観応3年(1352) 足利尊氏が新田義貞と戦い、苦戦のため敗退して 逃れたと伝えられる石濱であるという。

獣魂碑 多摩橋 森山神社 馬頭観音
多摩川河川敷から堤防に上がった広場の片隅に第4代・5代東京都知事を務めた東龍太郎の書による獣魂碑がある。
傍らに小さな供養塚が建っている。
多摩橋は、福生市とあきる野市に架かる橋で、五日市街道(都道7号線)が通っている。
現在の橋は昭和45年(1970)に架け替えらえたものである。
多摩橋を渡ると平井川の手前右手に森山神社がある。
森山神社は、江戸時代には森山明神社と呼ばれており、明治2年(1869)に草花神社に合社にされたが、大正初期に再び分離して森山地区の鎮守となった。
祭神は伊弉那岐命で、境内には天王社・御嶽社・八幡宮・稲荷神社などがある。
平井川に架かる多西橋を渡り一旦左に曲がり、その先で右に曲がる坂道の左手に馬頭観音が建っている。
この向かいには小社に地蔵菩薩が安置され、隣の小屋の裏に石祠がある。

ふれあい花壇 穴守稲荷神社 二宮神社 二宮神社御池
坂道を上がり切った二宮本宿信号交差点には、二宮町内会のふれあい花壇がある。
この一角には平成12年の秋葉大権現常夜燈が建っている。
ふれあい花壇の脇を左(南)に入って行くと穴守稲荷神社がある。
創建等は不詳であるが、小社の社殿の中には狛狐がたくさん並んだ石祠が祀られている。
先に進んで二宮神社前信号交差点を左に入ると右手の段上に二宮神社がある。
二宮神社の創建年代等は不詳であるが、小川大明神とも、二宮大明神とも称されたと言われ、藤原秀郷や滝山城主北条氏照も崇敬したという。また神社境内周辺は、室町時代にこの地に勢力を持った豪族大石氏の城館跡と言われている。境内には伊勢神社・八幡神社・八雲神社等の境内社などがある。
鳥居の前の道路の下方に二宮神社御池があり、池の脇には水神と思われる石祠がある。
この池は、昔雨乞いをしたところで、池の中には 「雨乞いの男」 と題された男像が建っている。

普門寺 瑠璃殿? 玉泉寺 廣済寺
街道を外れたついでにJR五日市線を越えると右手に臨済宗建長寺派の神護山普門寺がある。
普門寺は、文永6年(1269)北条時宗によって、二宮神社の廃社跡地に建てられ、山号もこれに由来して神護山と名付けられたと伝えられている。
山門を入ると左手に稲荷社が祀られ、境内には六地蔵尊・子育地蔵尊などがある。
普門寺の道路を挟んだ広場の奥に瑠璃殿と思われる堂宇がある。
堂宇には 「東方佛」 の扁額が掛かり、中を見ると中央に薬師如来、右脇に日光菩薩、左脇に月光菩薩を従え、後ろに十二神将が配置されている。更に一番外側に閻魔大王と奪衣婆が配されている。
街道に戻り二宮神社前信号交差点の右手から北に入る路地を進むと天台宗延暦寺派の鷲峰山玉泉寺がある。
玉泉寺は、寛永18年(1641)上野寛永寺派衆徒吉祥院が開基と云われ、本堂・山門・鐘楼は元禄4(1691)年の建立という。
境内には大樽に入った観音像・恵比寿神、あきる野市指定天然記念物のエノキがある。
玉泉寺の北側に臨済宗建長寺派の平澤山廣済寺がある。
廣済寺は、天正15年(1587)の創建で、椿山仙禅師を開山とする。
境内には、享保改革に影響を与えた 「民間省要」を著述し、後に幕領3万石の代官(支配勘定格)に任ぜられた平沢出身の民政家・田中丘隅の回向墓がある。

街道脇の畑 秋留台公園 名石? あきる野市役所
二宮神社前信号交差点から緩やかな坂道を上り、右手の清水外科病院の建物を過ぎると街道両側に民家はなく一面の畑が広がっている。 街道を少し進むと右手に秋留台公園がある。秋留台公園は、多摩川の支流である秋川と平井川の間にひろがる秋留台地のほぼ中央に位置し、周辺は武蔵野の面影を残す田園風景となっている。 秋留台公園の道路を挟んだ向かいの畑の前に大石があり、「名石です」 の看板があり、石の値段はお客様が決めて下さいと書かれている。 秋留台公園を過ぎると周囲に高いビルが無いせいか際立って高く見えるあきる野市役所の建物が目に飛び込んで来る。

大塚古墳 旧道口 旧道口 稲荷社
あきる野市役所前交差点を左折すると右手に大塚古墳がある。
この古墳は、昭和57年に行われた測量調査によって、一辺約33m、高さ約8mの規模であることが判明し、その形状から方墳の可能性が高いとされた。その後、平成5年の発掘調査では、周溝が確認されず、墳丘の盛土の特徴が古墳とは異なることから塚の可能性もあるといわれている。
古墳上には稲荷社の石祠がある。
滝山街道(国道411号線)を渡り、秋川駅前を過ぎてJR五日線の踏切を越えると、左手のケーヨーデイツーあきる野店の脇を通る旧道がある。
この旧道は150~60m先で合流し、更に向かいに20m程の旧道がある。
幾分下りになった街道を進むと西中学校入口信号交差点のところに旧道口がある。 旧道を進み、再び五日市街道(県道7号線)に合流する手前左手に稲荷社がある。

馬頭観音など 地蔵菩薩 天神社 能満寺
街道を進むと原店信号の右手段上の柵に囲われた中に馬頭観音・地蔵尊・青面金剛の庚申塔・寒念佛などの石造物が安置されている。
これらは植栽の前にあり、裏から回り込めないので全体像はなかなか撮影できない。
更に進んで下山田信号の手前右手の田辺酒店の路地角に享保4年(1719)の地蔵菩薩立像が祀られている。 下山田信号の左手角に天神社がある。
社伝によれば貞治・応安(1362~75)の頃、足利基氏の母瑞雲尼の創立で、社号は古くは天満宮と称し村内能満寺持ちの常照寺が別当であったが、明治の神仏分離令により天神社と改めた。
次の信号の山田会館前を左に入ると臨済宗建長寺派の能満寺がある。
能満寺は、応永5年(1398)広徳寺開山の心源希徹禅師による開山で、瑞雲寺殿喜渓忻大姉により創建されたという。かつては秋川を隔てた向かい側にあったが、元亀3年(1572)に現在地に再建されたと伝えられている。境内には地蔵菩薩・観音菩薩・大日如来などがある。

旧道口 道標 稲荷社 明光寺
能満寺を過ぎると右手のセブンイレブンの先に右に入る旧道がある。
この旧道は、入って直ぐ都道185号線を越えて、あきる野市立増戸小・中学校の前を通った先で五日市街道(都道7号線)に合流する。
旧道に入ると都道185号線に突き当たる手前左手に道標が建っている。
道標の建立年は不詳だが、比較的新しいもののようで、交差する道のそれぞれの方向を示している。
旧道を進むとあきる野市立増戸中学校の辺りの街道左手に赤い小屋がある。
一見稲荷社とは分からないが、南側に回ってみると稲荷社と分かり、中に二つの小社が有る。
あきる野市立増戸小学校の前から五日市街道(都道7号線)に合流し、その先で右(北)に入る路地を進むと臨済宗建長寺派の薬王山明光寺がある。
明光寺は、康安2年(1362)に開創され、本尊は薬師如来で、鎌倉時代を代表する仏師・運慶の作といわれている。山門はないが、寺標の前に地蔵菩薩群が安置され、境内には説教家元九代目薩摩若太夫の碑がある。

伊奈の市神様 旧道口 成就院 馬頭観音など
街道に戻ると左手の伊奈坂上バス停の近くの民家の庭先に伊奈の市神様がある。
解説によると、この地域で産出される伊奈石は農具や木炭などと共に取引され伊奈の市は大いに賑わったという。江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると、伊奈石の採掘で石工が動員され、村と江戸を結ぶ道は 「伊奈みち」 と呼ばれた。この石祠は伊奈村の市の守り神であり、側面には寛文2年(1662)と刻まれている。
市神様の直ぐ先の新秋川橋東信号で右に入る旧道がある。
この旧道は、蛇行する秋川に沿っており、その先の五日市橋信号で五日市街道(県道7号線)に合流する。
街道に入ると直ぐ右手に成就院の寺標があり、狭い参道を進むと真言宗豊山派の流澤山成就院がある。
成就院は、この先の横沢の大悲願寺の末寺で、文明元年(1469)大悲願寺7世重賢退院の時に開創された。本尊は木造不動明王で脇に矜が羅童子・制多迦童子を従えている。境内には不動明王像・枝垂れ桜がある。
成就院から街道に出ると成就院の墓地の石垣下に馬頭観音・地蔵尊・寒念仏が建っている。
途中の原店信号にあった寒念佛とよく似た形で、文字の配列もよく似ている。

岩走神社 小社 庚申塔など 秋川
坂道を下ると街道が左にカーブする右手に岩走神社がある。
岩走神社は、平安時代末期に信州の伊那郡の石工たちが移り住んでこの神社を開き、寛政6年(1794)には正一位の神階を受け、旧伊奈村の鎮守として信仰を集めてきた。
社号の 「岩走」 は、秋川の流れの様からとった言われている。御祭神は手力男命・稚日女尊・棚機姫命で、境内には琴平神社・稲荷神社・八雲神社・熊野神社・疱瘡神社がある。
岩走神社の前から秋川沿いの旧道 (秋川渓谷瀬音道) へ下ると左手段上に鳥居のある小社が建っている。小社と見えたのは覆屋で、中に神明宮と思われる小社がある。
瀬音道は、街道の面影を感じさせる気持ちの良い道である。
小社の下の民家脇に青面金剛の庚申塔と判別できない石造物が2基並んでいる。 旧道左手には澄んだ水の秋川が流れている。
あきる野市から檜原村に及ぶ全長約20kmほどは秋川渓谷と呼ばれ、渓流釣りやトレッキングなどが盛んである。

庚申塔など 大悲願寺 横沢・高尾集落 小御堂
瀬音道から上の段の道に合流する手前に庚申塔・馬頭観音・地蔵尊などの石造物が並んでいる。 上の段の道に合流したところで正面に上り坂があり、急な坂道を進んだ先でJR五日市線の踏切を越えるとその先に真言宗豊山派の金色山吉祥院大悲願寺がある。
源平合戦で名を馳せた日野の武将平山季重が醍醐寺三宝院の僧を招いて、建久2年(1191)に開山したと言われている。境内には寛政6年(1794)に建立された観音堂、安政6年(1859)に再建された仁王門などがある。
大悲願寺から下る坂道の途中からは、あきる野市の横沢集落と秋川対岸の高尾集落を望むことができる。 旧道を進んで秋川の支流に架かる三内橋を渡ると右手の段上に小御堂がある。
御堂の中には石祠が安置され、脇の小さな馬頭観音が建っている。

正光寺 八幡神社 留原集落 JR武蔵五日市駅
五日市橋信号交差点を渡った正面に時宗の金玉山正光寺がある。
正光寺は、嘉元3年(1305)二祖他阿真教上人により開創されたと伝えられている。
本尊は阿弥陀如来立像で、境内には弁財天堂・馬頭観音・寒念仏などがある。
正光寺の冠木門の前を右折して旧道を進んで行くと左手の館谷集落の中に八幡神社がある。神社の境内は、子供たちの絶好の遊び場になっているようで、ふと懐かしさを感じた。 旧道が五日市街道(都道7号線)に合流すると直ぐ左手に秋川が蛇行し、その向こうに留原の集落が広がっている。 直ぐ先でJR武蔵五日市駅に突き当たり、ここが五日市街道の終点である。

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