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北国西脇往還  (麻績宿~篠ノ井)


平成27年9月23日(水)  ☀   麻績宿 ~ 篠ノ井   <歩き17.0㎞>
今朝、シェーンガテンおみの周囲の山々は霧がかかって見事な景色となった。30分程周囲を散策の後、前日お願いしたタクシーで聖高原駅近くのセブンイレブンで下車して朝食昼食の2食分を買い込んで出発となった。これまで洗馬を出発してから、南から刈谷原峠(1020m)、立峠(998m)と越えてきたが、今日は最後の難所といわれた猿ヶ馬場峠(980m)を越えることになる。

シェーンガルテンおみ 道標跡 順拝供養塔 馬頭観音
雄大な北アルプスの峰々を背景とした 「シェーンガルテンおみ」 は、ドイツ語で美しい庭の意味だという。
露天風呂からは北アルプスの山並みを見ることが出来る。早朝は霧に包まれた山並みが見事であった。
麻績番所跡の先を進むと左手に筑北中学校の校庭があり、その手前を直角に曲がると道標跡の標柱が有る。
「右うゑた道 左せんこう寺道」 と標記されており、ここにあった道標は、現在聖博物館の庭に移設されているという。
筑北中学校前から田圃の中の道を直進して行くとカーブの手前に善光寺街道の道標がある。
道標の左手の畑の奥に文政12年(1829)の西国秩父四国坂東順拝供養塔が建っている。
畑の中の道を進むと民家の前に善光寺街道の道標があり、左を走る国道403号線に沿って進んでいくと国道の左手の斜面に道祖神が見える。
ここには安政5年・安政12年・文化5年・天保7年・明治24年などの馬頭観音が並んでいる。

国道沿いの街道 市野川番所跡 市野川一里塚跡 市野川神社一の鳥居
国道に沿った道には善光寺街道の道標が建っており、悩むことなく道標に従って進むことができる。
街道脇には馬頭観音や萩の花が咲き、長閑な山村の道を上って行く。
街道を進んでいくと宮川に架かる橋を渡った角に市野川番所跡がある。
橋の鉄パイプに善光寺街道案内があり、橋詰という地字と道の屈曲から、麻績町へ移る前の番所跡ではないかと記されている。
市野川番所跡から坂道を上って行くと国道403号線から分岐した更埴明科線道と合流し、更に進むと右手斜面に南無妙法蓮華経題目碑があり、隣の脇道を挟んだ家の前に市野川一里塚碑が建っている。 街道を進んで行くと左手の半鐘櫓の手前に市野川神社の一の鳥居が建っている。
今日は市野川神社の秋季例大祭が行われるということで朝から準備をしていた。
市野川神社は元慶4年(880)に勧請されたのが始まりとされる古社で、当初は猿ケ馬場嶺上に鎮座していたが、後に現在地に遷座したという。

高札場跡 旧道口 南無妙法蓮華経題目碑 旧道口
市野川集落は正式な宿場ではないhが、麻績宿と猿ヶ馬場峠の中間に位置するため集落には5軒の旅籠があったという。
このためか高札場も設置され、市野川神社の一の鳥居の先には郷蔵跡もある。
高札場を過ぎると左手の桜の木の下に石仏があり、その先左に善光寺街道の道標が建っている。
この道標から更埴明科線と分れて低い塀の続く旧道を進むと右から回り込んできた更埴明科線を横切って進んで行く。
旧道を抜けると国道403号線に合流し、少し登ると右カーブの左手に南無妙法蓮華経題目碑が建っている。
題目碑の後ろには明治26年(1893)の讀誦普門品六百巻供養塔が建っている。
題目碑の先を進んで民家の先左手に入る旧道がある。
ここには中部北陸自然歩道の道標が建っており、上って行くと右から回り込んできた国道403号線に合流する。
途中斜面の上に僧侶の墓石などの石造物がある。

旧道口 馬の水飲み場跡 弘法清水入口 お仙の茶屋跡・弘法清水
国道に合流してすぐ目の前に旧道口がある。旧道に入って右にカーブするといきなり草道となり、斜面に天保2年(1831)の馬頭観音が建っている 草道を上って行くと左手に馬の水飲み場跡があり、今でもかなりの水量があり、人間も飲めそうなほどきれいな水が流れている。 草道を登り詰める国道403号線に突き当たり、手前に聖湖まで0.8㎞の道標が建っている。
左の空き地の前には村営バスの弘法清水の停留所があり、旧道は停留所の向かいの段上にある。
旧道に入ると道脇のあちこちに句碑が建てられており、幾つか折れ曲がった先の平地にお仙の茶屋跡と弘法清水がある。ここには芭蕉翁碑、南無阿弥陀仏碑、石仏、石塔などがある。

聖湖 善光寺街道入口 旧道口 馬塚
お仙の茶屋から更に句碑の有る道を上ると国道403号線に合流し、道標の向かいの石垣の間の旧道を進むと聖湖に出る。
聖湖では釣り糸を垂れ者がみられるが、ヘラブナが釣れるそうである。湖畔には竹久夢二の歌碑などがあり、一本杉桟橋近くに猿ヶ馬場峠の解説がある。
猿ヶ馬場峠解説から30m先左手に善光寺街道入口がある。
踏み込むと草道で、直ぐ先で一旦国道に出て、その先で左に入る旧道がある。
国道から左に分岐する林道があり、ここには善光寺道の道標がある。
林道に入って直ぐ左に旧道口があったのだが見落としたまま林道を進み、旧道が林道に出るところに建つ道標で気が付いた。かなり下ってしまったので、そのまま先に進んだ。
念仏石の道標から下ること間もなく右手に馬塚碑がある。
峠の境界では麻績・永井・市野川の三ヶ村と八幡村との争いが絶えず、一夜にして築いたという馬塚は麻績側の領有根拠となり勝訴となったという。石を積み上げた馬塚は、林道の新設に伴い取壊され跡形もない。

猿飛池 御即位紀念林碑 火打石茶屋跡 松崎茶屋跡
馬塚から間もなく右手の木の間に猿飛池が見える。
猿飛池は緑色に濁った小さな池である。
杉の林を見ながら下ると左手に大正天皇御即位紀念林碑が建っている。 御即位紀念林碑の先に火打石茶屋跡が見えている。
最盛期は9軒の茶屋があり、中でも屋号名月屋寅蔵茶屋は、御憩休本陣として格式を誇り、入口には六文銭の黒門、屋根には六文銭の紋があり、殿様が一休したり、宿泊もしたという。
東屋の隣には、芭蕉句碑と御憩休本陣跡碑が建っている。
街道を下っていくと右手に姨捨近道棚田5.9㎞の道標があり、その先左手に松崎茶屋跡がある。当時は道下に田畑が広がり、蚕を飼うなどしながら茶屋を営んでいたという。この松崎茶屋は大正10年(1921)先代源之助氏が小学校に入学するのを機に下山したという。
ここには、石積跡や今も水を湛える泉水、井戸跡が残っている。

一里塚 くつ打ち場 猪犬訓練所跡 廻國供養塔
杉林の道をどんどん下り右に大きくカーブると左手に一里塚標柱が建っている。
ここから短いが旧道があり、草道を下ると右手に杉の木に囲まれた一里塚がある。そのまま草道を下ると舗装路に合流する。
林の道を進むと右手に 「のぞき」 解説があり、更に下って行くと左手にくつ打ち場跡がある。
ここは馬に草鞋(わらじ)を履き替えさせた場所である。
ここの大きな岩の上には文久2年(1862)の馬頭観音が安置されていたが、不心得者により持ち去られてしまったため、昭和42年に 「くつうち場」 碑が建てられた。
うねる林の道をどんどん下ると右手に金網の張られた建物があるが、梵天猪犬訓練所の跡である。 猪犬訓練所跡の直ぐ先右手に寛政9年(1797)の廻國供養塔が建っている。手前の解説によると八幡の郷、浦沢家の祖先が修業と国家安全を祈願して、国内の霊地を巡礼したときの記念碑であろうとのこと。
廻國供養塔の向かいは池があり、緑色の湖面が木々の間から見える

旧道口 中原無人墓地 道標 開眼寺
廻國供養塔の先で右手に下る旧道口がある。ここには林道側から見えない善光寺道の道標が建っている。
下って行くと間もなく目の前が開け、遠くに中央自動車道が見える。
旧道を下ると林の先に中原無人墓地がある。右の墓石に一渓道関禅定門と刻まれいているが、文政11年(1828)岩見国邑智郡熊見村(現在の島根県)の出身であった弥七の墓である。弥七は天災地変の不安定な時期にわざわざ西国のはてから善光寺参りの旅に出たものである。善光寺参りの前か後か定かではないが、この地で倒れた弥七を開眼寺住職及び中原の人々が手厚く葬ったものである。 中原無人墓地からリンゴ畑の脇を下って来ると右カーブの角に道標が建っている。
木の下に小さな石があり、文字がはっきりしていないが、これが道標である。
坂道を下ると川に突当り、右に進んで川を越えた先に開眼寺参道がある。
参道を進むと圓通橋で再び川を渡って開眼寺に入って行く。開眼寺は、慶安4年(1651)臨済宗妙心寺第一座、 龍天宗登(ろうてんそうと)大禅師により開創され、本堂の大悲閣は元禄4年(1691)二世の祖英和尚により建立された。本堂の前天井に架けられている龍の絵は、建仁寺・建長寺の龍の天井画作家小泉淳作氏の筆によるものである。

長野銘醸 道祖神 庚申塔 天満宮
開眼寺を出てJR篠ノ井線を渡ると国道403号線に合流し、その正面に元禄2年(1689)創業の長野銘醸・和田家がある。
当時は 「松泉」、「高砂」 を銘柄として使用していたが、現在の 「姨捨正宗」 は江戸後期からの銘柄である。
前庭にある七曲の松は天保14年(1843)の善光寺道名所図会に紹介されている。
長野銘醸を過ぎると街道は国道403号線が左にカーブるするところで右に分れて行く。
その先で佐野川沿いに出るが、右手のブドウ棚の下に昭和39年(1964)再建の道祖神が建っている。
佐野川に架かる和田橋を渡った先の左手の民家の角に寛政9年(1797)の庚申塔が建っている。 街道を進むと国道403号線に合流する左手角に天満宮がある。
社殿には恵心僧都作の菅原道真公像が安置され、社殿脇には道祖神がある。
昔ゝ桑原に雷が落ち、通りかかった領主の桑原左近将監が雷を捉えた。雷は 「今後、桑原には決して落としませんから許してください」 と詫びたので、左近将監は許した。雷がなったとき 「くわばら、くわばら」 と唱えると落ちないと言う伝説はここから生まれたという。

桑原宿本陣跡 伴月楼記念館 浄光庵 治田神社上宮の鳥居
天満宮を右折して真っ直ぐの道を進むと右手に長屋門の旧家あり、その先右手には日帰り温泉施設 「竹林の湯」 がある。
その斜向かいの千曲市消防団第6分団倉庫の隣に本陣跡がある。
桑原宿は江戸時代の始め頃より明治時代まで利用され、猿ヶ馬場峠の麓の宿場として、また松代藩の他領への出入口として重要視された。
桑原宿本陣跡の向かいに旧松代藩士・関家の武家屋敷を資料館として利用している伴月楼記念館がある。
安政3年(1856)建造の関家には、佐久間象山も訪れたといわれている。
伴月楼記念館の先左手に曹洞宗の寶珠山浄光庵がある。
浄光庵は明和2年(1765)龍洞院十五世の梅峯雄松和尚が地蔵堂に住んで堂宇を建立したのが始まりである。ご本尊は釈迦如来である。
浄光庵の先の三階建ての旧家の隣に治田神社上宮の一の鳥居が建ってるいる。鳥居の先を進むと荏原川に架かる治田橋の先に二の鳥居が見える。境内には杵築大神と各所から集められた祠が並んでいる。
治田神社は、彦坐命(ひこいますのみこと)・建御名方神(たけみなかたのかみ)八坂刀売命(やさかとめのみこと)保食神(うけもちのかみ)を祀っている。

三階建の家 親子象 道標 稲荷山一里塚跡
治田神社一の鳥居の近くには三階建の家が3軒ほど建っている。 左から流れる荏沢川と右手の佐野川が合流する手前の左手に親子像が建っている。
タイトルは 「萌え出づる者達」 となっている。
親子像の先の佐野川沿いに小公園があり、善光寺街道の道標と道祖神・馬頭観音が4基建っている。
道標には 「是より桑原宿 西へ京まで93里 東へ善光寺まで4里半」 と書かれている。
善光寺街道の道標を過ぎて長坂建設㈱の倉庫の前に稲荷山一里塚跡の標柱が建っている。
車道に面して文字書かれているので、歩道からは木柱が建っているとしか見えない。
近辺には西京街道の標識が建っており、国道18号線に合流する手前に馬頭観音らしき石碑が建っている。

道標 地蔵堂 治田神社下宮の鳥居 二十三夜塔
国道18号線を橋の下の歩道でくぐり、千曲市立更埴西中学校、稲荷山幼稚園を過ぎると治田町交差点の角に道標が建っている。
道標には 「右西京街道 左八幡宮道」 と刻まれている。西京は京都、八幡宮は武水別神社をさしている。
治田町交差点の次の十字路右手角に地蔵堂がある。
解説には上八日町のお地蔵さんとあり、蟹沢川の砂揚場に享保3年(1718)にこのお地蔵さんをお祀りしたとも、蟹沢川をゴロゴロ転がってきてここに安置されたとも言い伝わっているという。地蔵堂の前には更級郡稲荷山町道路元標が建っている。
地蔵堂の向かいの道の奥に治田神社下宮の一の鳥居が見える。
鳥居の神額には屋根が付いている。社殿は500mほど奥にあるため寄らずに先に進んだ。
治田神社下宮の鳥居の手前に二十三夜塔が建っている。
二十三夜塔の傍らには、道祖神と井戸がある。

極楽寺 町屋敷東蔵小路 城小路の井戸 稲荷山城址
地蔵堂から40mほど先の右手に冠木門の浄土宗極楽寺がある。
極楽寺は天正11年(1583)稲荷山城築城の折、鬼門除けとして五日町(現中町)に小坂山浄土屋敷より移ったが、寛永14年(1637)の水害により流失し、その後上八日町に移築再建された。
境内には上八日町最古の建造物の鐘楼、文化11年(1814)の馬頭観音などの石造物がある。
極楽寺の参道脇から町屋敷東蔵小路が続いている。稲荷山伝統的建造物保存地区の敷地は、街道に面して短冊形に割られ、街道に面して主屋建てられている。主屋の背後には土蔵や附属屋が建てられ、敷地背面が面する裏通りには土蔵が建ち並び、土蔵の間に門が構えられている。
町屋敷東蔵小路を抜けると右手に城小路の井戸がある。
城小路の井戸は、かつてこの地域が稲荷山城の城下町であった頃、城へ通ずる道路として利用された小路の脇にあったことからこう呼ばれるようになったと言われている。
城小路の井戸から更に小路を先に進むと右手に稲荷山城址がある。
天正10年(1582)上杉景勝によって東西155m、南北170mの平城が築城された。この地は城中の櫓台の跡地で銅鑼の形状であったことから鉦山(どらやま)と呼ばれている。

稲荷山宿本陣跡 宿並み 蔵し館 長雲寺
稲荷山城址から次の小路へ入る手前に道標があり、入って行くと右手に冠木門の松木本陣跡がある。
代々稲荷山宿本陣を務めた家で元々は築城時の本丸エリアといわれる。上杉家が会津へ移封後代官所となり、その後松木家所有となり本陣・問屋を務めた。元の門は本丸の裏門であったが弘化4年(1847)の善光寺地震の際に焼失し、現在の冠木門はその後の門である。
本陣跡を過ぎると本来の街道に出る。
この右手に稲荷山郵便局があり北信濃ろまん街道の道標が建っている。直進すると旧呉服商「山丹」の耐火耐震の重厚な建物が建っている。蔵の真下の水路は稲荷山城の掘跡といわれている。
街道左手の白土壁で塗り固めた典型的な 「土蔵造」 の建物は、江戸で発達した耐火建築様式を弘化の大地震の後、いちはやく取り入れたものといわれる生糸輸出の先駆者となった 「カネヤマ松源製糸」 の松林源之助・松林源九郎が築いた 「松林邸」 を修築したものである。
現在は蔵し館として稲荷山の生業や生活の様子を物語る民族的資料を多数展示している
蔵し館の脇の路地奥に真言宗の長雲寺がある。長雲寺は正徳5年(1716)四国伊予の国今治城主久松定時公の三男が出家し、京都の仁和寺で修業して良言上人となり、仁和寺から五大力尊を拝領して創建したものである。
境内には国指定重要文化財の木造愛染明王坐像、西国三十三番観世音像、不動堂などがある。

なまこ壁の土蔵 道標 田畑の中の街道 出川町公民館
長雲寺を過ぎるとその先で右に枡形となり、右角になまこ壁の土蔵のある重厚な家が建っている。 街道を直進して稲荷山荒町交差点で県道77号線を横断するとY字路となり、中央に道標が建っている。
道標には 「左せんこうじ道 右東京並屋代道」 と刻まれている。
道標から左に進んで行くと田畑が広がり、リンゴの実った一本道となる。
途中に塩崎遺跡群の発掘現場があり、青いビニールシートが敷き詰められていた。
街道はT字路に突当り、左手角に日本三所長谷観世音菩薩、正面民家の前に寛政11年(1799)の常夜燈が建っている。
写真の奥に見える屋根は天用寺のものである。
街道はここを右折して、その先の十字路を左折して行く。

天用寺 道路元標 康楽寺 秋葉神社
十字路を左折すると左手に浄土宗の天用寺がある。
天用寺には譜代松平旧領主位牌が安置されており、高い塀の前に徳本上人の南無阿弥陀仏碑が建っている。
天用寺から200m程進むと十字路があり、左はJR篠ノ井線の稲荷山駅へ、右は塩崎小学校へと行く。この十字路右手角に更級郡塩崎村道路元標が建っている。
道路元標の斜向かいの大きな土蔵のある建物は旗本松平氏五千石時代の大庄屋を勤めたという清水家である。
清水家の脇に康楽寺参道があるが、その入口に高祖聖人法然聖人御旧跡・白鳥山と刻まれた寺標が建っている。
康楽寺の開祖は西仏坊と言われ、西仏は俗名を海野通広といい、滋野の豪族・海野小太郎幸の親息子で幸長と名乗った。その後、浄寛最乗坊信教、木曽大夫坊覚明、円通院浄寛と名を代えている。山門には結雁金(むすびかりがね)、洲浜(すはま)の紋の入った提灯が下がっている。
康楽寺の隣に秋葉神社がある。
簡素な造りの拝殿の奥に石柱に乗った社殿が二つ並んでいる。

天満宮碑 浄信寺 秋葉神社 聖徳橋
街道に戻ると柏屋酒店の先の十字路左角に嘉永5年(1852)の天満宮碑が建っている。
左側面には、「法然堂八世源説筆子中」 と刻まれている。
天満宮碑の先は緩やかに右カーブとなり、次の十字路右手に浄土宗の浄信寺がある。
ご本尊は阿弥陀如来であり、境内には文化5年(1808)の常夜燈、文化13年(1816)の南無阿弥陀仏碑などがある。
浄真寺の先の山崎公民館の前に半鐘櫓が建っており、その下に石柱に乗った秋葉神社がある。
傍らには三十三献燈祭(さんじょさんけんとうさい)の解説が有り、8月9日山崎区全戸が集まり、三十三の燈籠を組立て、この地に飾り付け、役割分担して長谷観音まで掛け声をかけながら燈籠を担ぎ上げ献灯するという。山崎公民館の脇には頌徳碑が建っている
秋葉神社から程なく聖川に架かる聖徳橋を渡って山崎の内の平久保地区に入り、その先で長野自動車道の下を潜って行く。

姫宮神社 塩崎一里塚跡 篠ノ井追分宿跡 欣浄寺
長野自動車道の下を潜って進んで行くと左に平久保沖圃場整備竣工記念碑があり、その先右手の半鐘櫓の建つところに姫宮神社がある。境内には二鶏二猿の庚申塔、二十三夜塔などがある。 姫宮神社を過ぎて先に進むと左手の畑の前に塩崎一里塚跡がある。
塩崎村絵図に善光寺街道の一里塚の記載があり、街道を挟んで北側のものは5間3尺(10m)四方、南側のものは4間(7.3m)四方であった。
街道を進んで塩崎郵便局を過ぎると右手から合流して来る道があり、この角に篠ノ井追分宿跡碑が建っている。
合流して来る道は北国街道であり、この分去れ付近は篠ノ井追分宿といわれていたが、聞の宿で正規な宿場ではなかった。北国西脇往還(善光寺道)はここで北国街道に吸収されて終わるが、善光寺道であるからには善光寺まで行くこととする。
篠ノ井追分宿碑から間もなく左手に浄土宗の欣浄寺がある。
境内には徳本の南無阿弥陀仏碑、文政8年(1825)の馬頭観音などがある。

順礼供養塔 見六の道標 香福寺 筆塚
北陸新幹線のガード下をくぐって進んで行くと左手に入る道の角に舗装記念碑があり、その先みろく歯科クリニックの向かいに順礼供養塔が建っている。その直ぐ先には松蔭齊一露翁碑が建っている。 街道を進むと岡田川に架かる見六橋の手前に嘉永2年(1849)の道標が建っている。
この道標は正面に 「せんく王し(善光寺)道」 と刻まれ、上部に右手の人差し指の図が陽刻されている。更に道標の手前に嘉永3年(1850)の筆塚が建っている。
岡田川に架かる見六橋を渡るとY字路となり、このY字路を左に進んで行くと直ぐ先左に慶長10年(1605)に開山されたという浄土宗の香福寺がある。
本尊は阿弥陀如来で、境内には二対の六地蔵尊、馬頭観音、寺子屋師範を務めた桑原伴助の供養塔などが建っている。
香福寺の斜向かいに明治4年(1871)の筆塚が建っている。

頌徳碑 宝昌寺 歯槽医殿 幣川神社
筆塚の先の赤い消火栓の置かれているところに宮入源之助先生の頌徳碑が建っており、手前に地蔵菩薩坐像が安置されている。 頌徳碑の直ぐ先左手に曹洞宗の宝昌寺がある。ここには鬼女紅葉を退治した平惟茂将軍が、自らの姿を刻んだという 「甲冑薬師如来」が祀られた薬師堂、文化10年(1813)の天満天神宮碑,、慶応元年(1865)の筆塚がある。
宝昌寺は
松代藩の大家老鎌原氏が和尚の遺徳を慕って本堂再建にも多大な貢献したことから鎌原氏の家紋である 「蟹」 を寺の紋としている。
宝昌寺の直ぐ先で御幣川五叉路となり、この角に歯槽医殿がある。
寛政9年(1797)御幣川の村人・小林元右衛門、宮入兵右衛門が、この場所に社殿と野燈を奉納し、以来 全国にも珍しい虫歯の神様として祀られている。
歯槽医殿に幣川神社社標が建っていたが、その先に幣川神社がある。
慶長年間(1596~1614)に田用水の溝壁を開削中に甲越戦争の名将の兜標に用いたと思われる高さ5~6寸の黄金の御幣を堀出した。兜標には八幡宮の三字が刻まれていたため産土神として八幡宮を祀り、また、この頃村名もなかったので村名を御幣川と定めたという。

記念碑 篠ノ井駅
幣川神社から街道に戻って進んで行くと左手に大きな傳兵衛町開設記念碑が建っている。 記念碑の先で十字路を左折するとJR篠ノ井線・しなの鉄道線の篠ノ井駅である。
本日はここで終了し、しなの鉄道で屋代駅に出て武水別神社の前のホテルうづらやに宿泊する。

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