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旧青梅街道    (新宿~東大和)

旧青梅街道は住まいからも近いので中山道を歩く傍ら、天気のいい日にちょっと出かける感じで歩き始めた。
旧青梅街道は新宿追分(伊勢丹前)から青梅市を経由して山梨県甲府市の山崎交差点(甲州街道との交点)までの167㎞であり、中野宿、田無宿、小川宿、箱根ヶ崎宿、青梅宿、氷川宿、丹波宿、塩山宿、小原宿の9宿である。

平成26年5月3日(土)☀   新宿~田無  16.5㎞
連休の初日は天気が良かったので足慣らしも兼ねて少し歩こうと思い、9時35分に新宿追分を出発した。

新宿追分 天龍寺 成覚寺 太宗寺
新宿三丁目交差点に新宿追分の道標が建っている。
この道標の上には、「新宿元標ここが追分」と記載があり、道標を設置した経緯が書かれている。
また道標の下の歩道上には、円形の中に現在と江戸中期の地図が重ね表示され、その周囲に交通機関の移ろいが絵で描かれている。
新宿追分の近くに幾つかるある寺の一つで甲州街道方面に行ったところに建っている。
曹洞宗の寺院で境内には、第5代将軍徳川綱吉の側用人として重用された牧野成貞によって寄進された 「時の鐘」 がある。内藤新宿で遊興する旅人を追い出す 「追出しの鐘」 とも呼ばれていた。
新宿追分の近くの靖国通に面して浄土宗の寺院の成覚寺がある。
この寺は、内藤新宿の飯盛女たちの投げ込み寺であった。
境内には、共同墓地に葬られた飯盛女たちの供養碑である 「子供合埋碑」 や心中した遊女と客らを供養する 「旭地蔵」、江戸中期に活躍した恋川春町の墓がある。
成覚寺から甲州街道方面に戻ると浄土宗の寺院の太宗寺がある。
境内には、江戸六地蔵の一つの銅造地蔵菩薩坐像があり、その隣のお堂には閻魔像、奪衣婆像があり、お堂の向かいの社には三日月不動像、布袋尊像が安置されている。
境内奥の墓地には、信州高遠藩の内藤正勝の墓がある。

馬水槽 地下通路 常圓寺 常泉院
新宿駅東口広場に馬水槽がある。
19世紀にロンドン市内で馬・犬猫・人間に飲料水を供給した石造物で、イギリスから贈られたものである。
新宿東口から新宿西口につながる地下通路を通って行く。壁面には青梅街道が描かれている。
通路入口には、旧青梅街道の道標が建ち、通路を抜けると右手に思い出横丁があり、昭和の面影を残している。
思い出横丁を右に見て、真っ直ぐ小田急ハルクの裏を抜けて青梅街道に出ると街道右側に日蓮宗の寺院の常圓寺がある。
山門脇には、便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)、本名を大久保正武という狂歌師の歌碑がある。石碑には、「三度たくこめさへこわしやわらかしおもふままにはならぬ世の中」 と刻まれている。
常圓寺の隣に日蓮宗の常泉院があり、境内に新宿鬼子母神(成子の子育て鬼子母神)、浄行菩薩(心身を清める水かけボサツ)が祀られている。

成子子育地蔵尊 成子天神社 淀橋 稲荷神社
成子天神社から先に進むと青梅街道を渡った角に成子子育地蔵尊堂が建っている。
成子子育地蔵尊は享保12年(1727)に成子坂に北面して建立され、その後天保年間に再建、以来二百数十年間霊験あらたかに近郷近在の崇敬の対象となっていたが、昭和20年戦災のため壊滅の悲運にあった。
現在の御堂・地蔵尊は昭和26年に再建されたものである。
青梅街道を先に進むと右手に大きな成子天神社の社標が建っている。
マンション脇の参道を進むと鳥居の先に天神門があり、その奥に拝殿がある。境内には神明社、水神宮などの境内社、本殿の奥に富士山が造られれており、山頂に浅間神社が祀られている。参道から本殿までの間には七福神の石像が立っている。
神田川に架かっている橋が淀橋である。
淀橋の名は、三代将軍徳川家光が付けたと言われている。
古くからあるこの橋は、「姿見ずの橋」 とか 「いとま乞いの橋」 と言われており、放鷹に来ていた家光が橋の名の由来が不吉なことを知り、景色が京都の淀川に似ていたため淀橋としたと言われている。
淀橋を渡ると直ぐ右手に赤い鳥居の稲荷神社がある。
階段を上って行くと左側に小さな拝殿がある。

宝仙寺 慈眼寺 北野神社 蚕糸の森公園
中野坂上交差点を過ぎると右手に真言宗豊山派の宝仙寺が建っている。
宝仙寺は明王山聖無動院と号し、寛治年間(1087~94)源義家によって創建されたと伝えられている。境内には石臼塚、三重塔、御影堂があり、本堂脇には新四国霊場供養塔、南無大師遍照金剛、聖徳太子像などの石造物が並んでいる。
中野新橋に入ると右手に真言宗の慈眼寺がある。慈眼寺は天文13年(1544)の創建と伝えられている。
境内にはちょっと変わった鐘楼、万延元年(1860)の氷川坊さん像、文化13年(1816)の道標を兼ねた馬頭観音、元禄3年(1690)から寛保2年(1742)までの庚申塔6基が安置されている。
杉山公園交差点から4~5百メートル先の街道右側に北野神社がある。
菅原道真公をお祀りした神社で総本社は、京都の北野天満宮である。
境内には明治42年の1909)の狛犬、明治30年(1897)の手水石などがある。
環状7号線の手前左側に蚕糸の森公園がある。
蚕糸の森公園は、元蚕糸試験場の跡地に設けられた公園であり、元蚕糸試験場は昭和55年(1980)筑波研究学園都市に移転した。

真盛寺 妙法寺 荻窪八幡神社 井荻八幡神社
蚕糸の森公園の先で環状7号線を渡った左手に真盛寺がある。寛永8年(1631)伊賀国(三重県)出身の真観上人によって現在の文京区湯島の地に建立され、その後、現在地に大正11年(1922)に移転した。真盛寺は、延宝元年(1673)に三井高利が江戸日本橋に越後屋を創業して以来の菩提寺で、俗に 「三井寺」 とも呼ばれている。 真盛寺の先に日蓮宗の日円山妙法寺がある。仁王門には、徳川家綱が妙法寺の地頭所日吉山王社に寄進したとされる金剛力士像が安置されており、祖師堂には厄除け日蓮像が安置されている。境内には天明乃水の手水石があり、傍らに明和6年(1769)の燈籠が建ち、本堂に日蓮上人像、日朝堂に身延山第11世行学院日朝上人像を祀っている。 荻窪警察署の向かいに荻窪八幡神社がある。この神社は、旧上荻窪村の鎮守で、今から約1,100年以上前の寛平年間に建立されたと伝えられている。
境内には、太田道灌が戦勝を祈願し、献木を行ったという 「道灌槇」 が御神木として残っている。祓門からは、神門、本殿を望むことができる。また、境内社として御嶽神社、稲荷神社、須賀神社、琴平神社、祓戸神社がある。
荻窪八幡神社から1キロ弱進むと左側にこんもりとした森があり、大きな赤い鳥居の井荻八幡神社がある。
境内には、源頼朝が奥州征伐の途次、戦勝祈願をし、その願いが叶って自ら手植えしたという松がある。現在の松は、その末流にあたる。
また、境内社として三宮神社、祓戸神社などがある。

ケヤキ並木 開運地蔵尊 竹下稲荷神社 御嶽神社
井草八幡から先の青梅街道沿いには、ケヤキの並木が続いている。 ケヤキ並木の始まる上井草四丁目交差点には、開運地蔵尊が安置されている。
地蔵尊の隣には、回国供養塔が建っており、月山、羽黒、西国、秩父、坂東などの文字が刻まれている。
開運地蔵尊から程なく左側に竹下神社がある。この付近は江戸時代中頃に開発され、竹下新田と呼ばれていた。稲荷神社もその頃の創建と言われている。 竹下神社から程なく関町一丁目交差点の先の水道端バス停のところに小さな御嶽神社がある。
境内には、庚申塔、供養塔、石仏が安置されている。

関のかんかん地蔵 青梅街道の石柱 東伏見稲荷神社 弘法大師供養塔
御嶽神社から100mほど先の街道右側に関のかんかん地蔵がある。
この地蔵は、江戸時代中頃に造立され、石で叩けば願い事が叶うと言われ、長い間叩かれてきたため足元が細くなり、最近補修されている。かんかん地蔵とは叩いた時の音からきている。右側には胎蔵大日如来、左側には勢至菩薩が立っている。
練馬区立石神井西小学校の前に青梅街道の石柱が建っており、脇には青梅街道の説明板がある。
説明板には、「青梅街道は慶長11年(1606)に江戸城の大改修に当たって青梅付近の成木村・小曽木村などから江戸城修理に必要な石灰を搬送するために開かれた道で、別名成木街道とも石灰街道とも呼ばれた云々」 と記載されている。
街道を暫く進むと街道右手に東伏見稲荷神社の鳥居が見える。
東伏見稲荷神社は、昭和4年(1929)に京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創建された。
本殿裏には、たくさんの稲荷神社が鎮座している。
西部新宿線のガードをくぐった右手に嘉永7年(1854)の弘法大師供養塔が建っている。
ここは富士街道との追分に当たり、供養塔の側面は道標になっている。

柳沢庚申塔 田無神社 田無山総持寺
弘法大師供養塔の斜め向かい側に柳沢庚申塔が建っている。
この庚申塔は、享保8年(1723)この付近の住民23人によって庚申講が組織され、来世安楽を祈願して建立された。
柳沢庚申塔の先の田無町一丁目交差点を左折して間もなく右手に田無神社がある。
田無神社の創立は、鎌倉期の正応年間であり、田無北部の宮山に鎮座し、尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)と呼ばれていたが、寛文10年(1670)に現在地に移った。
祭神は龍神様であり、境内には、白龍、青龍が祀られている。
田無神社の直ぐ先に田無山総持寺がある。
総持寺の創建年代は不詳だが、元和年間(1615~23)に法印権大僧都俊栄和尚が田無北部に法界山西光寺として創建、慶安年間(1648~51)当地へ移転したと伝えられている。。江戸時代には尉殿権現社(現田無神社)の別当寺を勤めていた。
境内には、本堂再建<嘉永3年(1850)>の際に植えられたという欅の大木が立っている。


平成25年9月19日(金) ☀|☁   田無~東大和   9.8㎞
  前回から4か月ほど間が空いてしまったが、旧青梅街道の続きを歩くこととした。西武新宿線で田無まで行き、田無山総持寺前からやすらぎの小路も使いながら歩き始めた。天気は曇りがちであるが、日差しが弱いので歩きには適している。

       
観音寺 庚申塔 庚申塔・地蔵尊 地蔵尊
田無駅北口交叉点の先に観音寺がある。
観音寺の創建年代は不詳だが、僧賢覚が開山したと伝えられている。明治維新後、田無山総持寺と合併し、現在は総持寺の境外佛堂となっている。
境内には、寛保3年(1743)の宝篋印塔、観音像、六地蔵尊が安置されている。
田無町五丁目交差点角には、小社に安置された庚申塔がある。 都道5号線を進んで行くと橋場交差点の右手に小社に安置された青面金剛の庚申塔と地蔵尊がある。 橋場交差点を直進して行くと左手の中華料理江泉楼の横に小さな祠に納まった地蔵尊がある。その先、ローソンの向かい側のケヤキの木の脇に無人の野菜売り場が設置されている。

法善寺 円成院 地蔵菩薩 子守地蔵尊
県道5号線から右手にやや入ったところに法善寺がある。
浄土真宗本願寺派の寺院で山門は無く、民家のであり、建物の前には親鸞聖人の御幼少之像が建っている。
小平合同庁舎交差点を左に入ると右手に円成院がある。この寺の開基矢沢大堅は武州多摩郡上谷保村(現国立市)の出身で、宝永2年(1705)10月に当時中国から渡来して間もない臨済宗の分派である新しい明朝文化の影響をもった黄檗宗に帰依して円成院という寺を開いた。境内には、改修前の開山堂、山門が保存されている。 円成院山門前の道路を隔てて建っている小社の中に文化5年(1808)の地蔵菩薩が安置されている。 県道5号線を進んで八木メディカルクリニックの向かい側に小社があり、子守地蔵尊が安置されている。

武蔵野神社 地蔵尊 ふるさと村 延命寺
小平武道館前交差点の先右手に武蔵野神社がある。
武蔵野神社は、北野中新田の開発が一段落した享保9年(1724)に、上谷保村から毘沙門天を村の鎮守として遷宮し、明治維新の際、末社の猿田彦大神を村の鎮守として祭祀、武蔵野神社と改号、明治41年諏訪神社を合祀したという。
境内には、猿田彦大神像、文政8年(1825)の常夜燈がある。
武蔵野神社の直ぐ先に赤い布にくるまれた地蔵尊が東を向いて安置されている。 西武新宿線を越えて間もなく右手に小平ふるさと村が設置されている。
園内には、小平の新田開拓農家の住まいが保存展示されている。
新小金井街道(県道248号線)を越えた右手に延命寺がある。
延命寺は、享保年間の野中新田開発に際して入村した者たちの願いにより、野中善左衛門が開基となり享保18年(1733)この地に引寺されたという。
境内には、嘉永3年(1850)の青面金剛の庚申塔、正徳2年(1712)の常夜燈、延命寺堂宇、弘法大師碑などがある。

多摩野神社 熊野宮 平安院 小川寺
延命寺境内にある神社で創建年代等は不詳ながら、享保18年(1733)に移転してきた延命寺よりも10年ほど前に創祀されていたともいう稲荷社で、南に向いて小さな社殿と鳥居が建っている。 街道を進んで天神町交差点を越えた左手に熊野宮の社標があり、入って行くと正面に熊野宮がある。
拝殿前には、樹齢250年~300年の夫婦ケヤキの大木があり、境内奥には熊野宮(一本榎神社)由来の 「武蔵野乃一本榎」 が立っている。現在の榎は、三代目で樹齢100年ほど経っている。
小平消防署の向かい側に平安院がある。
この寺は、元文4年(1739)この地小川新田(仲町)に移住した農民の菩提寺として建立されたものである。
山門前には、六地蔵尊、青面金剛の庚申塔があり、境内には、開祖閑叔碩三禅師の法恩に報いるための石碑開山塔がある。
西武多摩湖線、武蔵野線、西武国分寺線を越えて西武拝島線と並行して進んでいくと左手に楼門の立つ小川寺がある。
門をくぐると左右に六地蔵尊が並び、境内には十三仏、薬持観音、千手観世音、逃げ水の里三十三観音の庭園などがある。

小平神明宮 庚申塔
小川寺のほぼ向かい側に小平神明宮がある。
明暦2年(1656)の開拓願いとともに神明宮勧請の願いが出され、5年後の寛文元年(1661)に名主・農民などの協力のもとに建立された。
れた。
本殿には天照皇大神の他、天満宮、天王宮、愛宕社が相殿として祀られ、東殿には3社、西殿には4社が祀られている。
街道を進むと西武拝島線に突き当たる。
ここは青梅橋という地名が残っており、承応4年(1655)に玉川上水から分水された野火止用水を青梅街道が横断するために架けられた橋があったところであるという。
角地には、小社に庚申塔が安置されている。本日はここで東大和市駅から帰宅することとした。

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