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甲州街道    (塩崎~富士見)

塩崎(駅)から富士見までは、韮崎宿、台ヶ原宿、教来石宿、蔦木宿とあり、約39kmの道程である。

平成25年9月23日(月)☀   塩崎~武川  17.5㎞
昨日から友人と諏訪方面へバス旅行で来ていたので、甲府で一泊して二人で歩くことにした。甲府発7時7分の下り電車で2駅先の塩崎駅に行く。

道祖神 蔵が続く 船形神社の石鳥居 芭蕉の句碑
塩崎駅を出て直ぐ東川を越え、右側になまこ壁の土蔵がある家の先に球形道祖神がある。
この隣には、三界萬霊塔と彫られた石碑(多くの人々、あらゆる生物の霊が成仏するよう願って建立されたもの)、二十二夜塔が水路脇に建っている。
道祖神から先に古めかしい蔵屋敷が続き、中にはきれいななまこ壁の蔵もある。
蔵の前の道路反対側には、字が判読できない石碑が建っている。
船形神社は、度重なる洪水のため、江戸時代に現在地へ移されたそうである。
船形神社というが、諏訪神社の一つであり、鳥居は山梨県指定文化財になっている。
鳥居の材石は石英角閃安山岩であり、右柱の刻銘によって応永4年(1397)に造建されたことがわかり、確実な室町時代初期の遺構として、そのころの基準を示す点がきわめて貴重であるとのことである。
石鳥居の直ぐ先で六反川を渡ることになるが、その手前の㈱双葉電気の角に芭蕉の句碑が建っている。
石碑には、「昼みれば首すじ赤き蛍かな」 と刻まれており、ここ六反川は金川と呼ばれ、蛍の名所であった。

二十三夜塔 塩川橋 大蓮寺 井筒屋醤油店
芭蕉の句碑を過ぎて田畑の交差点で右に入るとY字路に二十三夜塔が2基建っている。 やがて道は塩川を渡ることになり、塩川に架かる塩川橋を通る。
橋の右側には、中央本線が走っている。ここから見る甲斐の山並みは迫力がある。
暫く中央本線に沿って進み、下宿の交差点を過ぎたあたりの左側に大蓮寺がある。
日蓮宗の寺院で、境内には縁切り地蔵 (延命地蔵) が安置されている。
大蓮寺の先に歴史を感じさせる店構えの井筒屋醤油店がある。
歴史と伝統を守りつつ、新しい商品作りにも取り組んでいる醤油と味噌のお店である。

韮崎本陣跡 馬つなぎ石 雲岸寺 小林一三翁生家跡
山梨中央銀行の脇に石柱が建っている。
石柱の隣には、説明版が貼られており、「韮崎宿を通過する諸大名は日程の関係で宿泊することが少なく、本陣 (江戸時代幕府役人に備えた宿舎) は幕府役人が諸荷物を次の宿場に送る仕事が主で、問屋場と兼務であった」 と書かれている。
韮崎本陣跡と同じ並びで、㈱上田商店の店先にある。
手前の説明版には、「江戸時代に甲州街道・駿信往還・佐久往還の分岐点であった韮崎は宿場町として栄えた。旅人や商人が馬の手綱を繋いでおくための石で宿場町の趣を伝えている」 と書かれている。
本町交差点から右に入ると雲岸寺ある。
寺の裏手は崖になっていおり、窟観音堂がある。洞窟の中には、弘法大師御尊像や窟観音本尊聖観世音菩薩、千体仏(千体地蔵尊)などが安置されている。
また、窟観音の裏山には、体高16.6mの巨大な平和観音像が建っている。
韮崎文化村のアーチの隣に碑が建っている。
小林一三(雅号「逸翁」)は、明治6年(1873)1月3日山梨県韮崎市に生まれ、その誕生日をとって「一三」と名付けられた。
日本の近代化が進んだ明治・大正・昭和の時代にあって、鉄道経営を基軸として数々の事業を興した。
多才な業績の傍ら、一三は、小説・脚本・随筆・演劇論・経営論等々、膨大な著作物を遺した。

白髪神社 道祖神 水神宮 十六石
市役所東交差点の次のT字路の崖方向に白髪神社がある。
境内には、金井志雪の句碑があり、「暮おしむ枝から明ける桜かな」 と彫られている。
これは、境内にある花の大きさでは日本一と言われた通称大花桜を詠んだものである。
白髪神社から100mほど先の左側に道祖神が建っている。 国道20号線と国道141号線(清里ライン)の交差点に水神宮の石碑と石の祠が建っている。 Netトヨタ韮崎店の道路反対側に十六石の石柱と案内板が建っている。
武田信玄が治水に力を入れたのは有名だが、まだ晴信といわれた天文12~3年頃年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎町)を守るため、今の一ツ谷に治水工事を行なった。
その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で、その後徳川時代になって今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり韮崎は宿場町として栄えるようになったと言われている。

七里岩 水難供養塔 旧道の家並み 神明宮
七里岩は韮崎を先端に、蔦木付近まで28km (故に七里岩という) も続いており、今から20万年ほど前に八ヶ岳が噴火し、その土石流が韮崎に向かって下り、甲府盆地を埋め尽くし、その後釜無川など侵食され、延々と断崖が続く七里岩を形成したという。 十六石を過ぎて1㎞ほど進むとY字路となり、旧道は右に進むこととなる。手前に水難供養塔が建っている。
水難供養塔は、昭和34年8月14日台風7号の豪雨によって釜無川が氾濫し、これによる被災者を供養したものである。
水難供養塔から旧道に入ると、なまこ壁の旧家や長屋門の旧家が続き、石祠などもある 旧道を更に進むと左側に下祖母石の神明宮がある。
旧祖母石村の鎮守である。
境内の金毘羅常夜燈は、釜無川の舟運に由来するものである。

赤地蔵 城前寺 九頭竜大神 桐沢橋
神明宮の先に韮崎消防団第三部の火の見櫓があり、その先、城前寺へ行く途中に南無阿弥陀仏と刻まれた石碑が建っている。
地元では、赤地蔵と呼ばれている。
曹洞宗の寺院で寺の手前は一面の水田がある。参道から境内には、たくさんの石仏が安置されている。
桐沢橋を渡る手前の旧道が国道と合流するところに九頭竜大神がある。
石塔や道祖神などの石碑が安置されている。
釜無川に架かる橋である。
晴れていれば、橋から富士山が見える。この日は、雲がかかっていて見ることはできなかった。
この川は、下流で笛吹川を合わせ、富士川となって駿河湾に注いでいる。

原山神社 石灯籠 雨宮寺 徳島堰
桐沢橋を渡ってT字路を右折し、ガードをくぐると左手に石塔群があり、その先左側の高台に原山神社がある。
甲斐国志によると諏訪の御射山社と同じく日月星を祀っている。
折居の集落に入ると家神社があり、民家のあちこちに萬霊塔や石灯籠、道祖神などがあり、徳島堤の脇には、馬頭観世音など石碑がたくさんある。 折居集落を見下ろすような場所に雨宮寺が建っている。
雨宮寺は文禄元年 (1593) 雨宮勘兵衛の開基により創建されたお寺である。
入口は、急な石段になっていて、本堂の窓が武田菱になっている。
徳島堰は、上流の小武川が釜無川に合流する地点から取水し、武田の里を突っ切り、櫛形町の曲輪田(くるわだ)まで、全長約17Kmの農業用水路で、徳島兵左衛門が開削したことによりこの名がある。

秋葉山常夜燈 かかしの里 妙浄寺 上円井の街並み
円野の集落に入って、円野分団第二部の火の見櫓があり、その先が枡形になっている。
ここには、なまこ壁の家の前に寛政9年(1797)建立の秋葉山常夜燈が建っている。民家の前には、石祠(道祖神)や石碑などが建っている。
円野の集落が途切れて、一面水田が広がるところに 「かかしの里」 の看板があり、近くにはモニュメントも建っている。 かかしの里を過ぎて国道20号線を横切ると上円井の集落に入る。
集落の中央辺りに 「徳島翁のおはか道」 という石柱があり、ここを入って行くと日蓮宗清水山妙浄寺がある。寺には、徳島堤を造った徳島兵左エ門の墓がある。
本堂には、堤の守護神として建立された立像の七面大明神があり、現在でも徳島祈願所として祈祷が奉行されている。
なまこ壁の土蔵のある家が建っていて、昔を偲ばせる趣のある道が続いている。

明治天皇圓野御小休所跡 鹿嶋大神 南無阿弥陀仏の石碑 小武川橋
上円井集会所を過ぎて、内藤酒店の前になまこ壁の内藤家があるが、中を覗くと明治天皇圓野御小休所跡があり、石柱が建っている。 上円井の交差点で国道20号線に出た左側に児童公園があるが、その公園の大木の下に鹿嶋大神が祀られている。
公園の一角には石塔群があり、小ぶりな馬頭観音や南無阿弥陀仏と刻まれた石碑が建っている。
この先にセブンイレブン韮崎円野店があり、食料を買って暫し休憩した。
セブンイレブンの先で小武川橋を渡るが、その手前の道路右下に安政7年(1860)建立の南無阿弥陀仏と刻まれた石碑が道路を背にして建っている。 小武川に架かる小武川橋である。

馬頭観音 一里塚碑 庚申塔 長坂勘三郎の碑
武川町宮脇の集落が途切れる辺りで黒沢川に架かる黒沢橋を渡る。
ここから武川町牧原に入るが、道路左側に文字が消えかけた馬頭観音などの石碑が建っている。
牧原は、「まぎのはら」 と読む。
旧道が国道20号線と合流する手前に旧甲州街道一里塚跡の石柱が建っている。
石柱には、「甲府より6里なので六里塚とも云う」 と刻まれている。
江戸日本橋より数えて42里目である。
国道20号線を 「むかわ町の駅」 で右に折れてT字路になったところに文政5年(1822)建立の庚申塔が建っている。 旧牧原の中央辺りに長坂勘三郎の碑が建っている。
長坂勘三郎は、武川小学校の初代校長で地元の名士だという。

本法寺 萬霊塔 牧原八幡神社 近江屋
本日、宿泊予定の 「近江屋」 を過ぎた右側に日蓮宗の本法寺があり、境内には南無妙法蓮華経の題目碑があり、石碑の側面には 「天下泰平五穀成就」 と刻まれている。 旧道と国道20号線が合流する角地に牧原八幡神社があるが、その手前に萬霊塔と馬頭観音が安置されている。 牧原八幡神社の案内板によると、文武天皇4年(700年) に御牧 (官営牧場) の制度が設けられ甲斐の国では、穂坂牧 (韮崎市穂坂町)、柏前牧 (北杜市高根町)、真衣野牧 (武川村一帯) が定められ、この中で、真衣野牧は牧原の名前の原型となったそうである。
境内には、石の祠、舞台、御神木がある。
国道20号線沿いに位置し、駐車スペースも十分にある。
この日、泊り客は我々2名と登山客が1名でゆっくり過ごすことができた。

平成25年9月24日(火)☀   武川~塚平(重修一里塚)   21.6㎞
朝5時に起きて外をみると小雨が降っており、近くのコンビニで傘とおにぎりを買って6時に出発となった。大武川にかかる大武川橋を渡って直ぐ左側の脇道へと入って行く。この辺りは一面田んぼである。

大武川橋 道祖神 供養塔 庚申塔
辺りは小雨で視界が悪いが、先に進むこととした。
大武川に架かる大武川橋を渡り、旧道は下三吹バス停を左折して田圃道を左に入って行く。
旧道は、緩やかな上り坂になっていて、三吹集落に入ると正面に火の見櫓があり、近くに石の祠と常夜燈が建っている。 下三吹の集落のはずれに2基の供養塔と2基の常夜燈が建っている。 万休院への東口入口に庚申塔などの石碑が安置されている。
ここから万休院へは、かなりの急坂を登ることになる。

万休院 馬頭観音 山村風景 石碑群
急坂を登ると途中に交通安全の観音像が建ち、その先が曹洞宗長松山万休院である。
本堂には武田菱があしらわれており、武田四名臣の一人馬場信治の子馬場民部少輔の開基である。
境内には、枯山水、鐘楼、稲荷神社などがある。
ここには国指定文化財の舞鶴マツといわれ、樹形が傘状に広がり鶴が舞う姿に似たアカマツがあったが、マツクイムシの被害で枯死したとのことである。
万休院には西口もあり、下り坂が旧街道と合流する辺りに馬頭観音と庚申塔が建っている。
西口に向かって下ると旧街道を大きくショートカットするので、東口から街道へ出た。
上三吹の交差点手前で、のどかなる山村風景にマッチした栗の木がある。
栗の木の近くには南無阿弥陀仏と刻まれた石碑や甲子と刻まれた石碑群が安置されている。
甲子とは、甲子の夜、福の神大黒天を祀って、講中で甲子待の供養行事を行うことで、碑はその供養塔である。

上三吹集落 神社
一里塚碑 古道入口の碑
上三吹の交差点で国道20号線を横切ると昔ながらの家並みが続く。 上三吹の集落の外れに神社があり、入り口左手に地蔵尊、庚申塔、下が埋もれた南無阿弥陀仏の石碑などがある。
境内には、二社が祀られており、周りには多くの石塔席・石仏が安置されている。
水災記念碑も建っている。
神社を過ぎると旧道は、国道20号線に突き当たるが、その手前右側に旧甲州街道一里塚碑が建っている。
碑には、「甲府より七里なので七里塚とも云う」と刻まれている。
江戸日本橋より数えて43番目の一里塚である。
国道20号線に出て、尾白川に架かる尾白川橋を渡って直ぐ左側に古道入口がある。
石碑には、「古道は甲斐府中から韮崎市三之蔵より西に分かれ小田川を経て穴山の車坂にかかり七里岩の長坂町渋沢と日野の花水坂へと通じていた ここで釜無川の花水橋を渡り西岸の台ケ原へ出て信州蔦木へと向かう道で甲州街道以前の信州へと通じる主要な道路であった」 と刻まれている。

横山の道標 古道 古道出口 石碑群
古道入口から10mほど入ると右側に馬頭観音が建っており、傍に立つ説明書きには、「この道を古道という。古府中より穴山、日野を経て台ケ原村へと通じる道で、後に 「はらじみち」 ともいわれていた昔日の主要道路である。甲州道中の開設により台ケ原への入口でもあったので、江戸時代には交通の足である馬の四魔を承伏し、交通の安全を祈願して建てられた馬頭観世音の側面に道しるべとして 「右かうふみち 左はらじみち」 と刻まれている。 道標からは、けもの道のような古道が続いている。
道端の雑草が雨で濡れているため靴の中まで水が染み込んできた。
古道はぶどう畑の横を通り、尾白川の土手道へと出てくる。
先に進むと尾白川に架かる曲足橋に出て、ここから舗装道になる。
この舗装道になるところに古道の道標が建っている。
道標から先は、緩やかな上り坂で左側にたくさんの庚申塔と馬頭観音が並んでいる。

古道入口 台ケ原宿 道祖神 街並み
古道が国道20号線と突き当たるところに古道入口の碑があり、これは反対から来た旅人用であるが、写真の石碑の向こう側に道祖神跡という看板が建っている。
それによると、「道祖神は、村の境や辻などある民間信仰の神である。文政3年の記録によれば、1月14日の道祖神際の際には、「虎頭の舞」 が奉納されており、同年間の「甲州道中分間延絵図」 に図示されている三か所のうちの一つがここである。」 と書かれている。
国道20号線を横切ったところに 「日本の道百選 甲州街道 台ケ原宿」 の看板が建っている。
ここから台ケ原宿に入る。
台ヶ原宿に入って中宿といわれるところに山灯篭と様々な道祖神がまとめられた場所がある 宿場町の街並みが続く。彼方には白州の山並みが見える。
台ケ原宿は、元和4年(1618)甲州道中の宿駅となり、天保14年(1843)の規模は、本陣1軒、旅館14軒、家屋153軒で約1㎞であった。

造酒屋 本陣跡と常夜燈 ふれあい休憩所 七賢蔵元
杉玉(酒林)を吊りさげた造酒屋や大きな松のある旧家が何軒かある。
近くに 「立場跡と共同井戸跡」 の看板が建っている。
立場とは、宿の出入り口にあり、旅人、駕籠かき、人足、伝馬などが休憩する掛茶屋のこととある。
十字路を越えると上宿に入る。
この右側に本陣跡の標柱と大きな常夜燈が建っている。
ここが、本陣の小松屋伝右衛門跡である。天明2年(1782)の記録では、敷地は間口18間、奥行き19間で351坪であった。
台ケ原宿は度々火災に見舞われ、慶応3年(1867)防火を念願して秋葉大権現常夜燈を旧小松家(本陣)屋敷跡に建立した。
本陣の先、火の見櫓の下が、甲州街道台ケ原ふれあい休憩所になっている。
この向かい側が高札場跡である。
ふれあい休憩所の先に大きな杉玉(酒林)が吊り下がる山梨銘醸、寛延2年(1749)創業の銘酒七賢の蔵元がある。
七賢とは三国志末期の頃、中国河内郡山陽の竹林で、酒を飲みながら政談を行った七人の賢人のことである。
この家は脇本陣も兼ねており、明治13年 (1880) には明治天皇御巡幸の際には行在所になっている。

金精軒 旧家 登記所跡 田中神社
七賢の向かいには、明治35年(1902)創業の元祖信玄餅の老舗金精軒がある。
家屋は宿場時代の旅館である。
金精軒の先には、塀がやや歪になった旧家がある。
元禄13年(1700)の建築とのことである。
旧家の先に石段があり、奥に建物がある。
ここは登記所跡で、明治24年(1891)に開庁され、はじめは龍福寺の庫裡を借りて庁舎としていたが、その後、民間の個人宅を借りて業務を行ってきた。
しかし、大正元年月12月に庁舎が新築となり、この地で業務を行うこととなったが、昭和50年 (1975年) に韮崎出張所に統合されて配所となった。
登記所の先の街道から一段高いところにお茶壺道中所縁の田中神社がある
お茶壺道中は江戸幕府三代将軍家光の寛永10年(1633)から毎年4月中旬、京都の宇治に採茶使を派遣して、江戸城へ運んだ行列である。行列の往路は東海道であったが、復路は中山道を経て甲州道中へ入り、谷村勝山城の茶壺蔵に収蔵して、熟成後の秋に江戸城へ搬入した。その際の宿泊所に田中神社を使ったという。

田中神社の石仏 龍福寺 一里塚跡 つるや旅館
田中神社には、沢山の石仏、祠、道祖神などが安置されている。 田中神社の脇を通って旧街道とは離れたところに龍福寺がある。
参道入口には、萬霊塔と庚申供養塔が建っており、本堂階段脇には石仏が3基並んでいる。
かつて田中神社近くに修験智拳寺があり、明治4年の神仏分離令により廃寺となったとのことであるが、その向かい側に一里塚跡碑が建っている。
台ケ原の一里塚で、江戸日本橋より数えて43番目にあたる。
一里塚の先左側に元旅籠の 「津留や諸国旅人御宿鶴屋」 がある。
建物の右側に講札が三枚掲げられており、往時の風情を偲ばせている。
隣には新築のつるや旅館がある。近くに梅屋旅館がある。

秋葉山石塔 南無妙法蓮華経の題目碑 白須松原 石塔群
つるや旅館を直進して行くと火の見櫓があり、その根元に文化9年(1812)建立の秋葉山石塔がある。
ここは白州町白須であり、甲州街道はここを右折して行く。のどかな町並みが続く。
坂の途中左側に南無妙法蓮華経の題目碑が建っている。
傍らには石祠の道祖神や石碑もある。
民家が途切れるあたりで目の前が開けて遠くの山並みが雲間から覗いている。
この辺りが、平安時代から一里にわたって松原が続いていたという白洲松原である。
なだらかな上りの道を進むと右側の林の中に石塔がたくさんある。
石碑を見ると天保10年(1839)の観世音菩薩や安政2年(1855)の馬頭観音などである。
その向かいには、南無妙法蓮華経と刻まれた題目碑が建っている。

濁川橋 Y字分岐 七面大明神 石尊大権現常夜燈
石塔群を過ぎると国道20号線と合流し神宮川に架かる濁川橋を渡る。
橋を渡った右側は、サントリー工場の敷地が続く。
旧甲州街道は、サントリー工場の先のY字路を右に入って行く。
ここには、赤松の並木が少し残っている。地名も白州町松原となる。
また、Y字路坂の左には、太平洋戦争の慰霊塔や聖恩之碑が建っている。
白州電気工事店の手前に南無妙法蓮華経七面大明神と刻まれた石塔が建っている。
七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神である。
七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになった。
松原公民館を過ぎると左側に石尊大権現常夜燈が建っている。
この近くに石尊神社の石鳥居があるが、石尊神社は2㎞先の山中にあるので、先を行くことにした。更に進むと同じく石尊大権現常夜燈があり、傍らには供養塔や馬頭観音が並んでいる。

庚申塔 延命地蔵尊 本陣跡 諏訪神社
松原から荒田に入る手前の民家の角に判読が難しい庚申塔がある。この先、水の流れていない流川橋を渡り、暫く行くと国道20号線にぶつかる。 国道20号線に入って直ぐ左側に萬霊塔と石仏が建っており、少し入ると来福寺がある。
境内には、延命地蔵尊があり、水の枯れた放生池のほとりに一群の石仏が並んでいる。
延命地蔵尊の先の国道20号線の道路左側段上に明治天皇御小休所址の碑が建っている。
ここが教来石宿河西本陣跡である。
教来石宿は甲州最後の宿である。
甲州街道は、鳳来郵便局手前を右折する。
右折して300mほどの左手段上に諏訪神社がある。
境内には、不動明王像、甲子碑、忠魂碑、沢山の石の祠と石像がある。

諏訪神社の創建及び沿革は、詳しくは明らかでないが、古来から教来石の産土神として崇められてきた。
現在の本殿は、天保15年12月に再建したものである。

明治天皇御田植御通覧之碑 庚申塔 御膳水跡 地蔵菩薩
諏訪神社の先の左手段上に明治天皇御田植御通覧之碑が建っている。
明治13年(1880)巡幸の際、ここで眼下の田植え風景を御覧になった。
眼下には、七里岩と水田が広がっている。
道は下り坂になり、下教来石上バス停の手前右側に庚申塔があり、直ぐ先に南無阿弥陀仏と刻まれた石碑と石塔が建っている。 庚申塔から下り道となり、加久保沢を渡って上教来石に入る。
少し行くと御膳水跡がある。
説明板には、「明治13年(1880)明治天皇が御巡幸の際に、この細入沢の湧水を飲み、褒めた」 と書かれている。
道は緩やかな上りとなり、国道20号線にぶつかった左側に教慶寺がある。
この寺は、中国の宗から帰化した蘭渓道隆禅師が開山した。
国道20号線沿いに蘭渓道隆禅師が、村人の難儀を取り払うため安置したという地蔵菩薩がある。
地蔵菩薩を過ぎると旧道は、国道20号線の右側を通っていき、稲刈りの終わった田が広がっている。

供養塔 山口の関所跡 山口素堂句碑 日蓮上人の高座石
山口の集落に入ると民家の前に順禮四国八十八箇所供養塔が建っている。
近くには、重厚な造りの民家がある。
大目沢を渡ると道は田んぼの一本道になり、右手に山口の関所跡がある。
道路右側には、鳳来山口関所碑があり、隣に説明板があり、「甲州24箇所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所」 と書かれている。
また、道路左側には西番所碑が建っており、碑には、「天保7年8月百姓一揆時に開門 その責任をとり名取慶助は若尾に改姓 明治4年廃藩により廃止」 と刻まれている。
やがて一本道は、国道20号線に合流するが、釜無川に架かる新国界橋の手前の駐車場一角に山口素堂の句碑がある。
句碑には、「目に青葉 山ほととぎす 初かつお」 と刻まれている。
ここは、山口素堂出生の地である。
新国界橋の下を流れる釜無川は、澄んでいて清らかである。橋を渡ると長野県に入る。
国界橋を渡って暫く進み、下蔦木交差点の先を右斜めに入る道を上ると右側に南無日蓮大菩薩と刻まれた碑がある。
この奥に石囲いされて日蓮上人の高座石がある。当時、下蔦木村には悪疫が流行り村人が難渋していたため、通りかかった上人が石の上に三日三晩説法と加持祈祷を行い霊験をあらわしたという。
傍らにあるお堂は敬冠院といい、周辺には数基の石碑があり、旧道には石塔群もある。

道標 真福寺 梅並木 応安の古碑
石塔群から少し上ると右側に道標がある。
ブロックで囲まれた小さな道標は、直接は読めないが、隣に立つ看板には、武川筋逸見筋との合流地点の道しるべで、碑には、「へみみち にらさきまで むしゅく」 と刻まれていると書かれている。道標の右奥が逸見筋(原路)とのこと。
旧道を上って行くと、こんもりとした林の中に真福寺がある。
もともと真言宗であったが、日蓮上人に感応し、日蓮宗に改宗した。境内には、南無妙法蓮華経の石碑が建つ傍らに、文政元年(1804)建立の甲子塔もある。
真福寺を過ぎ、やや上りの道を行くと左右に梅の木があり、木には地元の方が詠んだのであろうか句が書かれた木札がさがっている。10本近くあったと思われる。 梅並木を下ってくると右側に水田が広がるところがあり、応安の古碑がある。
手前に 「富士見町指定史跡 応安の古碑」 と刻まれた碑があり、左後ろに 「子乃神」、右後ろに 「九四天」 と刻まれた石塔がある。
応安の古碑はその後ろの四角い石造物であり、宝篋印塔の基礎石といわれる応安5年(1372年)の石造物である。

蔦木宿遠望 蔦木宿入口 常夜燈 屋号
応安の古碑の前の水田から蔦木宿を望む。 上蔦木の集落の入口に蔦木宿の看板がある。
江戸より43番45里30丁とある。
信州に入って最初の宿場である。
蔦木宿の看板の先の小川を越えたところに常夜燈など石塔が建っている。
常夜燈の手前には、甲子塔、庚申塔、石像があり、常夜燈の奥には、六角灯篭、道祖神が祀られ、街道の悪霊を防いで旅人を護っている。
宿の家屋には、旧屋号が掲げられている。
この家は、「こく屋」 と書かれている。

枡形道路の碑 三光寺 十五社大明神 大阪屋本陣跡
蔦木宿は、甲州街道(道中)の宿駅として、慶長16年(1611)ころつくられた。
この宿駅は新しい土地に計画されたので、希に見る完備した形態となっている。
桝形路は、南北の入口に設けられ、以来、宿内への外からの見通しを遮り、侵入者の直進を妨げて、安全防備の役割をはたしてきた。
平成3年度の道路改良工事のために、南の桝形路を移動したので、その形態を碑面に刻し、これを残す。
枡形道路の右手に曹洞宗鹿島山三光寺がある。
参道には、萬霊塔、庚申塔があり、階段を上ると緑色の文字で鹿島山と書かれた山門がある。
境内には、納経塔、鐘楼があり、鐘楼前には 「参拝記念に梵鐘をお撞きください」 とあるので一撞きさせていただいた。
三光寺の隣に十五社大明神がある。
鳥居を潜った先の階段を上がると社殿があり、諏訪神社同様に7年に一度の御柱祭に使用する 「めどでこ」 が奉納されている。
「めどでこ」 は棒に縄の輪をくくりつけたもので、御柱の先端に取り付ける。
上蔦木交差点を越えると右手に大阪屋本陣跡がある。
本陣表門のみ残っており、隣には蔦木宿本陣跡の碑、明治大帝御駐輦跡の碑が建っている。

家並み 御膳水 枡形道址碑 川除古木
蔦木宿の家々には、旧屋号が記された木札が掲げられている。
家のないところには、標柱が立っている。
JA信州諏訪蔦木店の前に御膳水がある。
この水は七里岩から出る湧き水であり、明治天皇がご巡幸の際に使われた。
御膳水の傍らには、与謝野晶子歌碑があり 「白じらと並木のもとの石の樋が秋の水吐く蔦木宿かな」 と刻まれている。
御膳水の先の左側に枡形道址碑が建っている。道なりに左に進むと宝暦11年(1761)の観音講供養塔、享和9年(1809)の廿三夜塔、甲子塔が建っている。 枡形道路を進むと国道20号線に合流する手前に道祖神があり、その脇に 「川除古木」 がある。川除古木は、信玄堤と共に釜無川の氾濫による水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、現存しているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株である。明治31年(1898)の大水のときには、ここの大木を切り倒して集落内に向かおうとする大水の向きをかえ、集落を水害から守ったといわれる。

道祖神 道祖神 諏訪百番順拝供養塔 忠魂碑
国道20号線を進むと左手に㈱岩田屋建材の建物があり、その脇を通り再び国道20号線と合流する。
合流した左側に道祖神があり、その奥に甲子塔、庚申塔が建っている。
国道20号線を暫く進むと前方に一本松があり、旧道は斜め右の上り坂を行く。
右にカーブする左の石垣に馬頭観音があり、さらに進むと火の見櫓の下に写真の甲子塔と石祠の道祖神がある。
平岡の集落が途切れるところで国道20号線に出る分岐にでるが、旧道は右の坂を下って行く。途中、左側に諏訪百番順拝供養塔が建っている。
この少し先に母沢川がある。
母沢川の手前にいくらか木陰があったので、橋のたもとで暫し休憩をとった。
この先、旧道は緩やかな上りとなる。
緩やかな坂道を上り切ったあたりに三社明神社があり、その隣の富士見町立落合小学校との間に愛馬出征記念碑とその後ろに大きな忠魂碑が建っている。

道祖神 諏訪神社社殿 道標 石像
旧街道は、忠魂碑を過ぎて富士見町消防団第八分団屯所前から左カーブそして右カーブとなり、下り坂になる。
左側には国道20号線が見えている。
国道20号線に出る手前に、人々の無知を救う仏の智慧を象徴したという大勢至菩薩がある。
国道20号線に出て立場川に架かる瀬沢大橋を渡る。旧道は渡ったところで左折し、Uターンするように坂道を上って行く。
瀬沢郵便局の先の左側に天保13年(1842)の諏訪神社常夜燈があり、その先の石段を上って行くと諏訪神社社殿に出る。
境内には、大きな石碑がいくつかある。

吉見屋商店を左に進んで、次のY字路に道標がある。旧道は左を進む。
道標には、「右山浦左すわ」とある。
傍らには、四国西国秩父坂東供養塔と石碑(墓石?)が建っている。
道なりに旧道を進むと小川があり、渡るとT字路になるので右の急坂を登って行く。
途中、左側の土手に馬頭観音、甲子塔、道祖神がある。
さらに登ると木の下に石碑がある。

尾片瀬神社 とちの木風除林 重修一里塚碑 富士見駅
急坂を上り切ったところに社会福祉法人しらかば園があり、ここから旧道は下りになり、右手には八ヶ岳も見えてくる。
小川を渡ると瀬沢集落からとちの木集落に入る。とちの木集落の外れに尾片瀬神社がある。境内には、多数の石仏石塔がある。
神社の隣には、石祠が並び、その後ろには双体道祖神があり、その先右側には、馬頭観音が建っている
。旧道は緩やかな上り坂になっている。
上り坂が続く途中、右側に赤松の並木が現れる。富士見町指定天然記念物になっているとちの木風除林である。
この辺りは風が強く、農作物が育たなかったため、寛政年間(1789~1800)にとちの木農民が高島藩へ願い出て、防風林の赤松を植えたものである。
とちの木風除林を直進すると右手に重修一里塚碑がある。
塚平の一里塚ともいわれ、江戸日本橋より数えて47番目であり、傍らには道祖神が祀られている。
また近くに標高標柱があり950mと書かれている。
重修一里塚から旧道とは反対側に下りていくと国道20号線に突き当たり、そのまま直進すると富士見駅に出る。

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