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甲州街道    (富士見~下諏訪)

重修一里塚から下諏訪までは、金澤宿、上諏訪宿、下諏訪とあり、約25kmの道程である。

平成25年11月2日(土)☀   重修一里塚~茅野  13.1㎞
4時に起床し、荻窪発5:11の電車に乗り、高尾駅で15分ほど待って6:14の松本行き鈍行に乗る。三連休の初日で混雑しているかと思っていたが、以外にも空いていて座ることができた。8:37富士見駅に到着する。前回の続きは、15分ほど歩いたところからススキの原を右にみて砂利道を進んで行くこととなる。天気は快晴で遠くの山は所々紅葉に染まっていて美しい。

富士見 迂回路 富士見公園 明治天皇御膳水跡碑
富士見駅を出て国道20号線方向を望むと木々は紅葉真っ盛りといったところである。
前回の続きのため重修一里塚へ向かう途中の段上には道祖神など石碑が並んでいる。
重修一里塚からT字路に出ると右は、今来た道で富士見駅まで1.4㎞で、本来旧街道は直進しているが、三菱マテリアルの敷地となっているため、左折して最初の一本目を右折する。雲一つない晴天である。
やがて道は未舗装になり、右にカーブして旧街道に合流する。合流地点には原の茶屋の標識が建っている。
原の茶屋集落を進むと、集落中心部の十字路の手前右側に富士見公園がある。
公園には写真の芭蕉句碑 (眼にかかる殊更五月不二) をはじめとして、ちょん山句碑、斎藤茂吉歌碑、忠魂碑、従軍記念碑、庚申塔などが建っている。
集落中心部の十字路の先右側に原の茶屋公民館があり、敷地内に明治天皇御膳水跡碑がある。
碑の脇からは、透き通る清らかな水が流れている。

常夜燈 石塔群 金毘羅神社 道祖神
明治天皇御膳水の先には、文化8年(1811)の金毘羅神社常夜燈が建っている。
この向かい側には、灯篭を兼ねた歌碑が建っている。
常夜燈から少し行くと右側に庚申塔、道祖神、新しい双体道祖神が建っている。 原の茶屋集落の外れのうっそうとした林の中に金毘羅神社がある。
境内には、駒嶽大神、御嶽大神の石柱がある。金毘羅神社を過ぎると遠くまで田畑が広がる。
カゴメ富士見工場を過ぎると神戸の標柱があり、小高い場所に小さな石の祠の道祖神がある。

金山大権現 石仏石塔群 庚申塔 富蔵山碑
道祖神を過ぎて左にコイケ塗装工業所があり、前方に火の見櫓のあるY字路を左に少し行くと左側に赤松があり、その下に金山大権現が祀られている。
金山大権現は、日本各地に鎮座する神社で鍛冶、金属、鉱業にまつわる神を祀っている。
金山大権現の少し先左側に石仏石塔がたくさん並んでいる。
一番奥に真那以址碑、その右に一億百万遍供養塔、その右に南無阿弥陀仏と刻まれた石碑があり、前に馬頭観音や石仏が並んでいる。
奥の方は墓地になっている。
道は急な下り坂が続き、石仏石塔群の先の民家の角地に庚申塔、千庚申塔、筆塚がある。この先、道は枡形道路で右に旧に旧カーブして国道20号線と合流する。 枡形道路が国道20号線に合流する直前の右側石垣の上に富蔵山の碑が建っている。
富蔵山は長野にある山で、そこに建てられた奥の院には、守護神として馬頭観世音が祀られている。
馬は田畑を耕す時も活躍し、人の暮らしに欠かせない財産でもあった。

瑞雲寺 神戸八幡社 神戸八幡社の欅 馬頭観音
国道20号線に出て思沢川を渡ると右手に小沢平吉先生生誕之地碑がある。ここは御射山神戸で間の宿である。
思沢川から200mほど先左側に鐘楼門の瑞雲寺がある。
薬師堂の前には、庚申供養塔、南無阿弥陀仏と刻まれた石碑が建っている
神戸八幡交差点の左側に神戸八幡社がある。この八幡社は古くは鍬形八幡と称されていた。
現在の社殿は、宝暦12年(1762)建立であり、富士見町指定有形文化財となっている.。
本殿横のケヤキは、樹高30m、胸高幹囲7.7mで町内でみられるケヤキで最も大木であり、樹齢400年と推定されている
本殿横のケヤキのほか、富士見町にある14本の大ケヤキのうち4本が境内にある。 神戸八幡交差点から300mほど先でY字路になる。この角に馬頭観音が建っている。
旧街道は、ここを左に入って緩やかな坂道を上って行く。

石仏石塔群 片瀬明神址碑 一里塚 馬頭観音
Y字路を少し上がると右手に石仏石塔群がある。奉拝百番供養塔、馬頭観音、道祖神がたくさん集められている。
年代は、判読できるもので昭和、大正、明治、寛政、平治などである。
石仏石塔群のすぐ先に片瀬明神址の碑が建っている。
とちの木の尾片瀬神社と関係があるのかも知れない。
更に坂を上って行くと御射山神戸の一里塚がある。江戸日本橋から数えて48番目である。ここ西塚は、当時のままの欅が残っており、樹齢は390年と推定されている。東側の榎は、明治初期に枯れてしまった。 一里塚を過ぎると下り坂になり、右手に上部の欠けた馬頭観音が建っている。

庚申塔 馬頭観音 金毘羅神社 泉長寺
下り坂をさらに下って行くと右手に庚申塔とその奥に供養塔、道祖神が建っている。 庚申塔を過ぎてさらに下ると上部の欠けた馬頭観音が民家の角地に建っている。
この先、国道20号線が前方に見える左側の民家敷地にも馬頭観音が建っている
国道20号線に突き当たると金沢宿である。金沢区上町常会所の先左側段上に金毘羅神社が鎮座している。
境内には、常夜燈、山灯籠、石の祠、大権現碑などが建っている
金毘羅神社の先の小さな川を越えた左側に泉長寺参道口があり、萬霊塔、聖観世音菩薩、地蔵尊が並んでいる。
参道を進むと泉長寺であり、入口右側におてつき石がある。参勤交代の大名や藩主の通行の際に役人がこの石に手を付いて口上を述べたという。境内には、釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象とした仏足石も安置されている

金沢本陣跡 馬つなぎ石 石塔群 権現の森
金沢交差点左角の火の見櫓の下には、明治天皇金沢行在所址碑があり、奥には金沢宿本陣跡の看板が建っている。
金沢宿は慶安年間の初めまでは、現在地の北方権現原にあって青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安4年(1651)現在地に移転し金沢町と改称した。、
旧街道を偲ばせる道を進むとアドバンスオートの看板のある手前に大きな旧家がある。
家の前に馬つなぎ石の置かれた馬方宿跡である。
ここから4~5軒先のクリーニング店の前の家の角には、上部に電球を取り付けた常夜燈が建っている。
常夜燈の先,、右に入る道があるが、この先宮川に突き当たる辺りが刑場である。
その宮川の淵に石塔群がある。
大きいものは水神明王、そのほか魚供養塔、道祖神、地蔵などが並んでいる。
石塔群から宮川に架かる金沢橋を渡ると道は枡道になる。枡形道を通って国道20号線と合流する右側に権現の森がある。
甲州街道が下諏訪まで延長された慶長15年(1610)頃ここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、度重なる宮川の洪水や慶安3年(1650)の大火を機に南方の現在地へ移転し、翌4年に金沢宿と宿名を改めた
境内には、たくさんの石仏石塔が建っている。

一里塚 常夜燈 地蔵尊 石塔群
国道20号線を進むと左に寒天の里の看板がある。(近くに富屋寒天工場がある)
その先、ホテル虹色のメルヘンの裏手に稚児神社があり、その先に大池の一里塚碑が建っている。
碑には、江戸日本橋より49里と刻まれている。塚は甲州街道制定当時には両塚であったが、明治18年の道路改修や明治38年の中央本線の線路敷設工事などによって取り去られた。
国道20号線の直ぐ左側を宮川が流れ、木舟の集落に入る左手に道祖神と天保4年 (1833) の常夜燈が建っている。 あららぎ工務店の対面の脇道入口に地蔵尊が安置されている。
道の突当りには、火の見櫓が建っている。
国道20号線を進み右手にSUZUKIの看板がある建物の手前をUターンするように坂道があるので、ここを上って行く。
国道20号線からも見えるが、この坂の途中に石塔群があり、馬頭観音、庚申塔、石倉大六天、道祖神などが並んでいる。

石塔 貴船神社 宮川と旧道 石塔群
石塔群の直ぐ右手の道路がカーブするところに、柱に囲まれた石塔がある。
この先、坂の上は中央本線の跨橋となっている。
中央線跨橋を渡ると貴船神社がある。
木舟の集落を見下ろせるところに鎮座しており、登って来た中央線跨橋や石塔も見下ろすことができる
貴船神社から下って来ると一本道が宮川に沿って延びている。
この先、街道脇には、真ん中で折れた形跡のある南無妙法蓮華経と刻まれた石碑と馬頭観音が建っている
宮川に沿って進むと右から流れ込む小早川を
渡り、その先で中央本線のガード下を潜って国道20号線と合流する。
この合流地点には、たくさんの石塔群があり、秋葉山常夜燈、羽黒山・湯殿山・月山大権現、二十三夜塔、馬頭観音などがある。

石祠 石仏 酒室神社 三輪神社
石塔群の上には階段が続き、上って行くと石祠があり、御柱が立っている。
さらに上ると戦捷紀念碑が建っている。明治三十七八年と彫られていので日露戦争当時のものである
石塔群の隣の国道20号線に面した土手に石祠があり、中に三体の石仏が安置されている。 石仏の先で弓振川を建倉橋で渡り、100mほどの坂室交差点右側に酒室神社がある。
酒室神社は、御射山祭りに濁酒(どぶろく)を作り、山の神に供える前夜祭をとり行なった神聖な地に祀った神で、酒解子(さけとくね)之神を祭神とする。
神殿は文政8年(1825)大隈流の建築家矢崎玖右衛門の建築したものである。神社脇には道祖神がある
中央高速道路下を通り、宮川交差点を直進すると左側に三輪神社がある。
三輪神社は、久寿年間(約810年前)に、大和の国三輪村神社をこの地にお迎えしたものと伝えられ、宮川茅野・西茅野両区の産土神である。祭神は大国主命・稲御魂命・櫛玉命である。
本殿は、文化元年(1804)3月に矢崎玖右衛門により建築され、拝殿は文政3年(1820)に建築されたが、明治41年に改築している。
明治天皇茅野御小休所跡 宗湖寺 原祝神社 上川橋
三輪神社の脇は広場になっていて、ここは名主を勤めた五味氏宅跡であり、敷地の街道に面したところに明治天皇茅野御小休所跡碑が建っている。
街道を挟んだ対面には、信州みその丸井伊藤商店があり、味噌蔵などの他、貧乏神神社を見学ができる
信州みその丸井伊藤商店の裏手には、曹洞宗宗湖寺がある。
参道脇には、たくさんの石仏が鎮座し、境内には、明治天皇茅野御膳水碑があり、五味家で小休した明治天皇に寺の井戸から運んだ水でお茶を差し上げた
また、この寺は、諏訪家の藩祖諏訪頼忠の菩提所でもある。
宗湖寺の向かいには、原祝神社が鎮座しているが、由緒は不明である。
境内の奥に石祠がある
甲州街道は、上川に架かる上川橋を渡って茅野市は入る。
上川は、諏訪湖に流れ込んでいる川であり、橋から上流を望むと中央本線の鉄橋が見え、川の中央に大きな石があり、その上に鷺と思われる鳥がいた。ここから茅野駅に出る途中に駅前工事の際に発見された丸い巨石が保存されれている。

平成25年11月23日(土)☀   茅野~下諏訪   11.7㎞
この土日は、天候が安定しているとの予報だったので、これまで2度一緒に甲州街道を歩いた友人と前回の続きを歩くこととした。
朝7時ちょうどのスーパーあずさ1号で茅野へ向かい、9時15分から歩き始め、まずは逆方向の上川橋のたもとにある石碑を見てから、茅野方向に進み大鳥居を左に見て旧道へ入って行く。 右手に諏訪神社の末社である大年社があるので寄って行く。

石碑と上川 諏訪神社上社大鳥居 大年社神社 上原八幡神社
上川橋の左側(下流方向)に大きな木と下に治水碑が建っている。
この辺りは、銭場といわれているが、堤防工事や井戸掘り、その他の土木工事の際、この付近から古銭が発掘されたので、銭場という名称になった。
茅野駅前交差点には、諏訪神社上社の大鳥居が聳え立っている。 大鳥居から程なく右側に市指定史跡の大年社(おおとししゃ)がある。
大年社は、諏訪神社上社の末社で、祭神は大歳神で、祀られた年代は明らかでない。
御座石神社同様、御柱を建てず、その代わり7年ごとに素朴な鳥居を建てるなど、古風を多く残している。
境内には、鳥居の先中央に社があり、その左側に四隅に御柱の立った小さな社がある。
上原交差点で国道20号線と合流して直ぐ左側に上原八幡神社がある。
古くは八幡宮とよばれ、諏訪守重が鎌倉鶴岡八幡宮を分霊し八幡山極楽寺を別当として、神祭祈祷を盛んにした。
境内には、男女双体道祖神や供養塔などの石塔が並んでいる。
神社の隣のフェンスの先には光明寺跡の碑が建っている。

極楽寺 葛井神社 金剛寺跡 道祖神
上原八幡神社の道路向かい側には、上原八幡の別当寺である極楽寺がある。別当寺とは神仏習合が許されていた時代に神社を経営管理していた寺である。
境内には、社と宝篋印塔、馬頭観音などの石碑が並んでいる
極楽寺から400mほど行った左側に葛井神社の標柱の立つ細い道があるので、下って行くと右手に葛井神社がある。
境内には、四隅を御柱に囲まれた本殿と池がある。当初は、池が信仰の対象であり、葛井の神池といわれ、池に住む魚はすべて片目であるといわれる。
また、千本木欅というご神木が途中から切られて、上部に屋根をかけて保存されている
葛井神社から国道20号線に出ると正面に細い道があり、入って行くと右手に金剛寺跡の碑が建っている。
鎌倉五山になぞらえて上原五山(極楽寺、光明寺、永明寺、金剛寺、法明寺)と称される中の一寺である。
国道20号線に出て上原公民館を越えて右手に火の見櫓もあるT字路角に塔所小路の標柱があるが、その脇に男女双体道祖神と石碑が建っている。

上ノ御社宮神 頼岳寺入口 頼岳寺山門 頼岳寺本堂
上原北交差点を過ぎると左手に上ノ御社宮神が道路わきに鎮座している。
境内には、道路側に向けて土橋祝殿大欅之跡碑が建っている。
上原頼岳寺交差点の右側に頼岳寺への入り口となる道路があり、入り口には定の書かれた建物がある。
定めは、一、車馬を乗入る事 一、魚鳥を捕ふる事 一、竹木を伐る事 右條々於境内令禁止者也 と書かれている。
頼岳寺へは、旧街道を先に行ってから寄ることとして、このまま直進する。
国道20号線右に茅野上原郵便局があるので、ここを右折して旧街道に入り、中央本線のガード下を潜り、頼岳寺へ寄った。
一つ目の山門手前には大きな石碑と石灯篭があり、この山門から二つ目の山門までは、杉並木が続いている
かつては目通り幹回り3.5m、推定樹齢300年の大木であったが、昭和9年の室戸大風やその後の台風によって多くの木が倒れてしまった。
階段を上って山門から本堂を望む。
境内には、諏訪氏の旗印となった梶の木が植えられており、寺紋にもなっている。
また、境内奥には、諏訪氏頼岳寺御廟所があり、頼水の父頼忠、頼忠夫人、頼水の三名の御廟が三室に分かれて建っている。

姫宮神社 頼重院 神戸神社 神戸一里塚
頼岳寺を出て旧街道を進むと右手の山の中腹に姫宮神社がある。
旧道に出て頼重院へ向かう途中には、道端に双体道祖神や石碑、常夜燈が建っている
常夜燈の四面には、秋葉山、白雲山、象頭山、日本之総神の文字が刻まれている。
頼重院は、曹洞宗の寺院で諏訪頼重の菩提寺である。
境内からは、茅野の町が一望でき、階段わきの駐車場の石垣には、たくさんの石像石碑が並んでいる。
旧街道に出て神戸公民館の斜め前方右手に秋葉山大権現と刻まれた常夜燈と石に囲まれた双体道祖神があり、右に上って行くと神戸神社がある。
石段手前には、御嶽山座王大権現と刻まれた石碑などが建っている。
本殿の隣には、魚雷と思われるものも置かれている。
神戸神社から坂を下り、旧街道に出ると左手に神戸一里塚の碑がある。
ここ神戸一里塚は、日本橋から51番目の一里塚で、西には上諏訪の片羽に52番目の一里塚があった。

地蔵院 常夜燈 道標 勝稲荷神社
神戸一里塚の直ぐ先の右手に、曹洞宗無量山地蔵院の参道があり、地蔵尊、南無阿弥陀仏と刻まれた石碑、二十三夜などが並んでいる。
境内には、 たくさんの地蔵尊が安置されてい
る。
地蔵院から旧街道に出て直ぐ左手に半鐘櫓が建っているが、その下に石碑と上部の灯を入れるところが木造になっている常夜燈が建っている。 旧街道を進んでいくと十字路になって左側に白鳥ドライクリーニングがあり、十字路の中央に道標と常夜燈が建っている。
道標には、「右江戸みち 左大明神江」 と刻まれている。
道標を右手に上って行くと坂の途中右手に勝稲荷神社がある。

足長神社 道祖神 道祖神 道祖神
四賀桑原交差点を旧街道をそれて右に上って行くと、右手に桑原城跡の小山が見え、神社の横手辺りに石塔群を見て、足長神社の階段中間点辺りを道が横切っている。
境内は、石段を上って拝殿、舞殿があり、更に階段を上って本殿がある
写真は、旧街道からの登り口である。
足長神社から程なく右側駐車場の角で坂道の手前に石祠に収まった男女双体道祖神と秋葉山石塔が建っている。 普門寺区公民館の先に小川が右から流れているが、その川縁に男女双体道祖神2基と秋葉山石塔が建っている。
この先、岩窪観音前バス停にも道祖神があり、その裏手には岩久保観音堂がある。
道は、幾分下り坂となって、右手の山の中腹まで民家がある。

旧街道は、国道20号線から枝分かれした道と合流し、右手武津公民館前に男女双体道祖神があり、その脇には、秋葉山石塔が建っている。

呉服のかねさ 宮坂酒造 十王堂碑 法光寺
街道は、堀内石材工業の前で国道20号線に合流する。
清水1・2丁目交差点を越えて直ぐ左に蔵造りの呉服のかねさが建っている。
対面には、染一染物店がある
元町交差点左側は、銘酒真澄の蔵元宮坂酒造がある。
宮坂酒造は、寛文2年(1662)の創業で、高嶋藩の御用酒屋を勤めていた。
店先では、樽酒の試飲をしていたので、一口いただくこととした。
宮坂酒造の先はY字路になっているが、どちらの道も上諏訪宿の街道である。
この分岐点に、角間町十王堂碑が建っている。
諏訪藩主頼水の娘亀姫は嫁ぎ先で書状を下男に託したところ 、日頃から折り合いの悪い下男は書状を川に捨て、永明寺に駆け込んだと言います。頼水は下男の引渡しを要求したが、寺が拒否したため寺を焼き払い下男の首を刎ねここに捨てました。町人達は祟りを恐れ、亡者の裁きをする十王をここに祀ったと言われている。
十王堂碑を右手の街道に入り、角間川を渡って右手に入ると浄土宗手長山法光寺がある。
上原五山の法明寺と光明寺が合併した寺である。
境内には、六地蔵尊、言成地蔵尊、庚申塔などが建っている

正願寺 貞松院 高国寺 手長神社
法光寺の奥には、浄土宗正願寺がある。ここには、河合曽良の墓がある。河合曽良は、慶安2年(1649)諏訪下桑原で生まれ、後に江戸に出て芭蕉の門人となる。
元禄2年3月、江戸深川から東北・北陸を巡り岐阜大垣に至るまでの5ヶ月間、六百里の旅を師匠・芭蕉に伴い踏破し、 この旅を基に書かれたのが 「奥の細道」 になる。
松島にて 「松島や鶴に身を借れほととぎす」
辞世句 「春にわれ乞食やめても筑紫かな」
寛永7年(1710)5月22日没、62歳であった。
法光寺の前には、浄土宗貞松院がある。
貞松院は、高島藩初代藩主諏訪頼水の開祖で、当初は慈雲寺といっていたが、2代藩主諏訪忠恒が、生母貞松院(頼水妻)の遺志により再興し、貞松院と名を改めた。
境内には貞松院のほか、藩主の子ら、そして徳川家康の六男で諏訪に配流された松平忠輝の墓もある。寺の瓦には、葵の紋が入っている。
貞松院の隣には、日蓮宗宣妙山高国寺がある。
高国寺は、寛永元年(1624)日長上人が創建した寺である
その後、天和3年(1683)高嶋藩3代目諏訪忠晴が生母の霊廟を造営した。
高国寺から街道を直進すると右側に諏訪郵便局があり、その隣に手長神社がある。
古くは「手長宮」・「手長大明神」と称され、諏訪大社の末社であった。
元は桑原郷の総鎮守で、足摩乳命とともに祀られており、のちに鎌倉時代に桑原郷が上桑原と下桑原に分けられたとき、下桑原に手摩乳命(てなづちのみこと)を祀る手長神社が作られ、上桑原の足長神社とともにそれぞれの鎮守となったとされる。階段下に網掛け石の旧跡がある

吉田の松 一里塚跡 温泉寺 和泉式部の墓
手長神社から少し行くと市立片羽保育園のまえに吉田の松がある。
高島藩士吉田式部彦衛門が元禄3年(1690)から享保8年(1723)藩主忠虎の大阪城守備に随行したとき持ち帰ったものと伝えられる。
代々吉田家の庭園に育てられたものを、昭和の始め旧甲州街道沿いに移植したものであり、市内の最年長樹で諏訪市天然記念物となっている。
吉田の松の先、街道左側に一里塚跡の碑が建っている。
ここに一里塚ができたのは、慶長15年(1610)頃と言われている。
この塚は江戸から52里で西は下諏訪町富部の53里塚、東は四賀神戸の51里塚へと続いている。
この先、街道右手の崖の中腹に馬頭観音が建っている
街道は、湯の脇公民館で右にカーブし、右高台に温泉寺がある。
温泉寺は、慶安2年(1549)、高嶋藩二代目藩主諏訪忠恒によって諏訪家の菩提寺として建立された。
境内には、忠恒桜、長野県宝の梵鐘、諏訪市有形文化財の鉄塔がある。鉄塔とはいうものの石造りである。
温泉寺の裏手は墓地になっており、墓地の奥の方に和泉式部の墓がある。和泉式部は下諏訪の出身といわれている。
また、墓地の一角に枝垂桜の老木がある。二代目藩主諏訪忠恒が慶長20年(1615)大阪夏の陣に出陣し、戦勝凱旋の際に持ち帰って植えた桜である。

児玉石神社 白山神社 先宮神社 大ケヤキ
温泉寺から街道に出ると右側に児玉石神社がある。
境内にある5個の大石は諏訪七石の一つに数えられ、拝殿前にある2個の大石は神社のシンボルでいぼ石と呼ばれれいる。
大石には、たくさんの凹部があり、常に水をたたえて乾くことがなく、この水で「いぼ」を洗うと治癒するという。
鳥居の横の大杉は、樹齢250年で御神木となっている。
児玉石神社の先、街道右側には白山神社がある。
石段手前に慰霊碑があり、階段を上って行くと小さな祠が3個あり、脇には全快地蔵尊が安置されている。
街道を先に行くと程なく右側には、先宮神社がある。
参道口の小川には橋が架っていないが、これは諏訪神社の神が出雲からこの地に鎮座した際、この神社の神がが抵抗したため境内から出ることを許されなかった為といわれている。
拝殿脇の大ケヤキは樹齢690年以上と推定され、幹には大きなこぶが数か所にある。
境内の街道脇には、寛永5年(1628)の男女双体道祖神がある
大和公民館を過ぎると左側に大きなケヤキの木が立っている。
根元には、甲州街道の標柱が建ち、奥には慰霊碑、脇には津島牛頭大王の碑が建っている。
大ケヤキの裏に回ってみると、空洞になっており表皮だけで生きている。

寿量院 常夜燈 諏訪湖 茶屋跡
大ケヤキの先に浄土宗清谷山寿量院があり、
山門両脇には、石仏石碑が並んでいる。
街道を進むと右側に天保10年(1839)の北村中と刻まれた常夜燈がある。 暫く旧街道を進み左手の旅館野路を過ぎると左側に棚田が現れ、その先に諏訪湖が広がっている。旧街道は、緩やかな下り坂となる。 街道を進むとなまこ壁の先の連子格子の茶屋橋本屋跡がある。
脇の門は、高島城三ノ丸の門を移築したもので、欄間には鯉の彫刻が施されている。

道祖神 島木赤彦住居跡 津島神社 地蔵菩薩
街道を進むと火の見櫓のある下諏訪町消防団第五分団所で十字路にぶつかる。
その角に男女双体道祖神が建っている。
十字路を進むと程なく右側に下諏訪町指定文化財島木赤彦住居跡がある。
赤彦は、明治30年(1897)久保田家の養嗣子となり、大正15年(1926)3月死去するまで、この家を根拠に活動した。
庭の赤松は、樹齢300年といわれている。
島木赤彦住宅跡の脇を奥に上って行くと路地の突当りに高木津島神社がある。
尾張津島神社の分社で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が主神として祭られている。
村の鎮守として崇敬され、明治5年(1872)には村社に昇格した。
左側に諏訪湖を見ながら街道を進むと、右側の一段高くなったところに石碑が建っている。
手前は、南信八名所石投場碑で往時は、足元が湖面であった為、ここで石投げを興じたという。
隣は明治天皇駐輦(ちゅうれん)址碑であり、明治13年(1880)明治天皇巡幸の折、とても風景がいいので思わず車を止めたと言われている。

一里塚碑 山口の関所跡 いいなり地蔵 諏訪大社下社秋宮
石投場から少し進むと街道右側に一里塚跡の碑が建っている。
この塚は江戸日本橋より53番目の一里塚で、甲州道中最後のものである。
あと11町(1100m)で華やかな下諏訪宿に着き、中山道につながる。
街道を進むと右手に若宮神社の社碑が建っている。
その先の承知川に架かる承知橋を渡ると右の久保海道公会所の石垣に旧承知橋の一枚岩が組み込まれて保存されている。
石の脇には、説明書きと承知地蔵尊が安置されている。

諏訪下社に入る手前の諏訪大社展望台方向に入ると右手にいいなり地蔵尊が安置されている。
元禄年間諏訪神社の神宮寺の境内に安置されていたが、明治元年神仏分離令が公布され神宮寺が廃寺になり、いいなり地蔵尊は萩倉の薬師堂に安置されたが、毎日、少しづつ前にあった位置に移動するので、信者も驚き、地蔵様の心を思い、前の位置(この場所)に安置した。
街道は、諏訪大社下社の大鳥居の前に出る。鳥居を潜ると正面に樹齢700年と推定される 「根入りの杉」 がある。
根入りの杉の奥は、神楽殿があり、両脇に日本一大きい青銅製の狛犬が鎮座している。
その奥が、諏訪大社下社秋の弊拝殿である。境内には、天覧の白松、御柱、若宮社、さざれ石などがある。

番屋跡 新鶴本店 天龍道人住居跡 甲州街道中山道合流地点
諏訪大社の大鳥居から街道へ出て少し行くと右手に番屋跡の碑が建っている。
下諏訪宿は、甲州道中口と中山道口の三か所に番屋が設置されていた。
番屋の先には、下諏訪名物の塩羊羹の老舗である新鶴本店(創業明治6年)がある。 新鶴本店の隣は、天龍道人住居跡がある。
天龍道人は、鹿島藩(佐賀県)の家老板部氏子息として享保3年に生まれた。
その後、京都に出て勤皇運動に身を投じたが、時代の背景にまだ機の熟さないことを察して信州諏訪地方に逃れた。下諏訪に住居を構えて風雅な生活を送った。
主な画題としては、「葡萄の図」「鷹の図」等を特に好んで作品を今に残している。
聴泉閣かめやは皇女和宮さまが泊まられた部屋があり、お茶菓子付きで見学できるようになっている。
そのかめやの前には小さな広場があり、甲州街道中山道合流之地と刻まれた碑が建っている。
ここが甲州街道の終点である。

綿の湯の碑 中山道下諏訪宿問屋場跡
街道合流之碑の裏に綿の碑が建っている。
下諏訪の3名湯といわれているのが「児湯」(こゆ)「旦過の湯」(たんかのゆ)「綿の湯」(わたのゆ)の3つである。
このうち「綿の湯」は 上社の女神が、湯を含ませた化粧用の「綿」を持って下社に渡られた。その時にしたたり落ちた湯が上諏訪から下諏訪にかけての温泉で、最後に「綿」を置いたところが現在の「綿の湯」だと伝えられている。
甲州街道の終点のところが、下諏訪宿問屋場跡である。
脇には石柱があり、「甲州道中終点 右江戸へ五十三里十一丁 中山道下諏訪宿問屋場跡 左江戸よりへ五十五里7丁 正面京都へ七十七里3丁」 と刻まれている。

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