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甲州街道    (甲斐大和~塩崎)

 甲斐大和(駅)から塩崎までは、鶴瀬宿、勝沼宿、栗原宿、石和宿、甲府柳町宿とあり、約30kmの道程である。

平成25年8月10日(土)☀   甲斐大和~笛吹橋  12.0㎞
予報では気温が高くなるの注意が必要とのことであったが、保冷剤など準備して前回の続きを歩くことにした。甲斐大和駅に午前7時38分に到着し、国道20号線を20分も歩くと鶴瀬宿に到着する。

立会橋 鶴瀬関所跡 金岡自画地蔵尊碑 鶴瀬宿の標柱
甲斐大和駅から20分ほどで鶴瀬宿に入る手前の立会橋を渡る。
右側は、国道20号線。
立会橋を渡ると直ぐ鶴瀬関所跡の木柱が建っている。
木柱には、「甲州十二関の一つ、この関は 「鶴瀬の口留番所といわれ、主に物資の流通の警戒と入鉄砲に出女」 を取り締まった関所です」 と書かれている。
平安時代、巨勢金岡という大和絵の祖が岩に地蔵尊を描いた。
江戸時代には線が細くなり普段は見えなくなってしまったが、水をかけると浮かび上がったという。
明治40年の洪水で像は流失したが、地蔵岩を示す碑が残っている。
鶴瀬宿の標柱には、「江戸より三十一宿、江戸へ三十里二十七丁、甲府へ五里一丁」 と書かれている。
標柱の横には、「鶴瀬地区」 と書かれた石碑が建っている。
この直ぐ傍には、秋葉大権現と彫られた常夜燈が建っている。

血洗沢の標柱 古跡鞍懸の標柱 甲州古道入口 聖観音堂の標柱
鶴瀬宿碑から700mほど下った真龍寺の入り口辺りの石垣の上に木でよく見ないが、「古跡血洗沢」 と書かれた標柱が建っている。
この地は、土屋惣藏が逃亡した跡部大炊介を追尾して斬り、この沢で血を洗い流したと言われている。
血洗沢の標柱から600mほどの道路右側に石垣に立て掛けられた古跡鞍懸の標柱がある。
標柱には、「この地は、逃亡する長坂長閑が土屋惣藏に追われて、落ちた鞍が路傍の桜の木にかかっていた所と言われています」 と書かれている。
古跡鞍懸の直ぐ先は、甲州古道へ上がる道がある。ここから国道20号線方向をみると山あいに中央高速道路が見える。 甲州古道入口を上がった正面に聖観音堂の標柱が建っている。
標柱には、「本尊は聖観世音菩薩で京都清水から移したものといわれていおり養蚕の守護神として信仰あり」 と書かれている。
裏側には、「観音の甍見やりつ花の雲」 と芭蕉の句が書かれている。


荒れ放題の神社 武田不動尊 旧甲州街道の標柱 柏尾古戦場跡
獣道のような古道を登ると、途中には転々と墓があり、登り切ったところに荒れ放題の神社が現れる。
ここからは甲府方向を望むことができる。
古道は、ここから下に降りていくことになるが、非常に急な崖で、足を滑らせたら下の道路まで落ちてしまうほどである。
神社から降りたところは、国道20号線を潜って甲州古道が続いている。
潜り抜けたところに武田不動尊がある。
写真の標柱の裏には、「この地は、勝頼一行が憩いし折り、武運の長久を祈り里人にこれを託したところと言われています」 と書かれている。階段を降りていくと小さな祠と不動明王の石像、背後に小さな滝が流れている。
武田不動尊のすぐ先に旧甲州街道の標柱が建っている。
標柱には、「甲州街道鶴瀬宿と勝沼宿を結ぶ横吹の道中は往時の面影を今に伝えています」 と書かれている。
確かに歩いていくと、趣ある道で横吹神社や所々に道祖神、六地蔵尊が並んでいる。
明治元年(1868)3月6日、近藤勇率いるかつての新撰組、会津藩兵から成る幕府軍甲陽鎮撫隊と因幡、土佐、高遠藩兵から成る官軍が戦った地である。
近くには、柏尾坂の馬頭観音や明治、大正時代の柏尾橋の写真などを埋め込んだ石碑がある。

大善寺 国見坂の標柱 上行寺 勝沼氏館跡の案内
大善寺は真言宗の寺院で、寺伝では養老2年(718)に行基によって開創されたとある。
本尊の薬師如来座像と脇侍の日光・月光菩薩立像が有名で、薬師堂は国宝に指定されている。
長い石段の先に国宝の薬師堂がある。
大善寺を過ぎて県道38号線に入り、ぶどうの萩浜園の道路反対側に国見坂の標柱が建っている。
傍らには、石仏、石柱が建っている。
往時は、笹子から下ってきて、この地で甲府盆地が一望できたのだろう。
寺の入り口には、日蓮聖人投宿之地の石柱などが建ち、山門をくぐると本堂が正面に、左にお墓が見える。
境内には、南無日蓮大菩薩などの石碑がある
上行寺の反対側には、勝沼氏館跡とあるが、史跡らしいものは残っていない。
真新しい勝沼氏供養地蔵なるものが、設置されていた。
甲州街道勝沼宿の案内板は、塀に立て掛けられた状態で置かれており、「勝沼宿は甲州街道の宿として、元和4年(1618)に新規取り立てとなり、鶴瀬・駒飼宿と栗原宿の間の荷物、人の継ぎたてを行った云々」 と書いてある。

勝沼宿脇本陣跡 本陣槍掛けの松 勝沼宿仲松屋跡 旧田中銀行社屋
上町交差点の手前右側に勝沼宿脇本陣跡の標柱が建っている。
標柱には、「天保14年(1843)当時、勝沼宿上町脇本陣はこの地に置かれていた」 と書かれている。
上松交差点から10m程先の右側に本陣槍掛けの松と標柱が建っている。
標柱に説明があり、「勝沼宿本陣に大名、公家などが泊まると、その目印に槍を立て掛けた老松」 と書いてある。
屋敷の前に説明書きがあり、「江戸時代後期の東屋敷と明治時代の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成る。東屋敷の主屋は板葺、二階建建築で、脇蔵(通り蔵)、坪庭、風呂、厠、味噌蔵から構成されている。西屋敷は帳場と居間を別棟とした主屋と坪庭、会所、蔵屋敷などから構成されている。東西両屋敷群は江戸時代後期から、明治時代の勝沼宿の建築を知る上で貴重である。」 と書かれている。 仲松屋の右斜め先に洋風の建物がある。
旧田中銀行博物館の看板が掛かり、元々は、明治30年ごろ勝沼郵便電信局舎として建築されたが、その後山梨田中銀行の社屋として使用された。
裏には銀行時代に建てられたレンガ造りの土蔵も残されており、内部は無料で見学ができる。中に入るとボランティアで案内をしているという女性が麦茶を進めながら説明をしてくれた。

ようあん坂 明治天皇行在所跡碑 護念寺 ぶどう園
旧田中銀行社屋のちょっと先から幾分下り坂になっているが、信号手前にようあん坂の標柱が建っている。
標柱には、「勝沼宿内で最も急な坂。名は用有と呼び止めたことからとも天野養庵の家が近くにあったためとも伝えられる。」 と書かれている。
ようあん坂の標柱の先には、明治天皇行在所跡碑が建っている。
碑の奥は、甲州市立勝沼小学校である。
山梨中央公園の前あたりに護念寺がある。
浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来である。
この寺には、柏尾の戦闘で戦死した官軍側ただ一人の戦死者、木村伊助武則の墓がある。官軍は土佐藩、因幡藩、高遠藩から成る連合軍であったが、木村伊助は因幡藩士であった。
最初の山門を入った左側に石仏が三体建っている。
県道38号線から県道34号線にわたって道路の両側にはたくさんのぶどう園があったが、ちょっと一休みしようと入ったところが自由園である。
スーパーには出ていない銘柄のぶどうがあり、3種類ほど自宅へ送った。

常夜燈 杉御坊の石碑 大法寺
等々力交差点から100mほどのローソンの向かい側道路右側に文政の常夜燈が建っている。
傍らには、丸い石がコンクリートで固められているが、これは道祖神とのこと。
萬福寺参道の入口には杉御坊の大きな石碑がある。
親鸞聖人が来られた時に、杉の箸を地面に挿して帰った後、その箸が大木になったとの伝承から<杉の御坊>と呼ばれるようになり、
親鸞聖人ゆかりのお寺である。寺院は、ここから北へ少し入るので寄らずに先へ進む。
上栗原の信号を過ぎて直ぐ右側に大法寺がある。
日蓮宗の寺院である。入り口には、上部が欠けた南無日蓮大菩薩の石碑が並んでいる
大法寺の少し先の消防サイレンの鉄塔下に小さな祠が建っている。

大宮五所大神 田安陣屋跡 称名院 日川橋
参道入り口には、大きな碑が建っており、境内には市指定の天然記念物であるクロマツがある。
根回り3.25m目通り2.83m、樹高12m、枝張り東4.5m、西3m、南5.2m、北3.7mのクロマツで老松と呼ばれ、社殿を覆うほどである。
一町田中の交差点を右折したところにある田安陣屋は、延享4年(1747)この地におかれ、以後明治3年までの間、田安領統治の中心となった。
北東隅の石積の上には守護神の水上稲荷社がまつられている。
領主田安宗武は江戸幕府8代将軍徳川吉宗の二男で、甲斐では山梨郡28か村、八代郡35か村、計63か村を領し、当初の石高は3万4千石であった。
称名院は、田安陣屋跡の手前にある浄土宗の寺院である。
称名院には、武田勝頼が新府城を捨て岩殿城を目指す途中で信玄の所持していた水晶の数珠をここに納めたという話が残っている。
流れている川は日川であり、この先、笛吹橋の手前で笛吹川に合流する。
旧甲州街道は、この橋の100mほど上流を通っていた。

白山神社 ぶどう畑 笛吹川 笛吹橋
日川橋を渡って右側に白山神社がある。
境内には、天神宮、水天宮などの石碑が建っている。
旧甲州街道の一本隣に甲州桃太郎街道と名付けられた道があるが、この道に面してぶどう畑がある。
この辺りで気温は37℃~38℃くらいであろうか。ここまでにペットボトルを4本飲み干して更に2本追加したが、汗は滝のごとく流れる。
旧甲州街道と甲州桃太郎街道との合流地点から石和方向を望む。
日差しを遮るところもなく暑かったが、もう少し頑張ろうと傘を差しながら笛吹川の土手を行く。
笛吹橋を越えると石和温泉入口である。
笛吹橋を渡るときに風呂でのぼせたような感覚に陥り、近くのコンビニへ入り、店員にお願いして暫く体を冷やすことにした。
さすがに甲府までは無理と諦めて石和温泉駅から帰ることにした。
帰宅してニュースで知ったが、甲府市内は40.7℃という高温であった。

平成25年9月14日(土)☀   笛吹橋~塩崎   17.6㎞
前回の続きのため早朝5:38の高尾行に乗る。連休初日だったが台風の予報もあるためか登山客は少ない。

      
松並木 笛吹権三郎の像 長昌院 道祖神
石和温泉入口の信号から笛吹川の土手に沿って松並木が続く。
昔の面影を忍ばせる風景である。
笛の上手な少年 「笛吹権三郎」 は、ある年の7月、大洪水に遭い、母と共に濁流にのみ込まれ、母だけが流されて行方不明となってしまった。
母の好きだった篠笛を吹きながら、川を上り下りして捜したが、自らも疲れ果て川に落ち、下流の小松村まで流され、近くの長慶寺に手厚く葬られた。
像の周りには、水天宮などの石碑が建っている。
笠笛吹権三郎の像から300mほどのところに長昌院がある。
境内には、赤ちゃんを抱いた等身大の悲母観世音菩薩の像と神社で見かける春日灯籠がある。
八田公民館の隣に道祖神がある。
近年に造られたものであろうが、小さい石が6~7個取り囲んでいる中に大きい卵形の石が立ち、下の台座に当たる部分に 「道祖神」 と彫ってある。

鵜飼山遠妙寺 願生稲荷大明神 石和本陣跡 あし湯
山門をくぐると正面に仁王門、本堂と続く。左手に 「石和温泉七福神」 の大黒天、そのうしろに鵜飼翁の供養塔、さらに奥に鵜飼漁翁勘作の墓(五輪塔)がある。
鵜飼山遠妙寺には、鵜飼漁翁勘作(平時忠)の伝説が残っている。
願生稲荷は、住吉国主武田家屋敷の守護神として古城にあったが、武田家滅亡後は忘れられていた。
享和3年(1803)、それまで空官だったが、妙覚稲荷神社跡地に古城稲荷を勧請したのが始まりと言われている。
遠妙寺の先に石和本陣跡の碑が建っている。
説明では、「石和御本陣は、寛永年間(1625頃)幕府の命により此処に置かれた。特に大名が宿泊し、信州松代城十万石、真田伊豆守及び松平甲斐守十五万石を初め、全国の諸大名が宿泊し、大名宿とも言われ明治維新まで続いた。明治13年6月19日、明治天皇御巡幸のみぎり御休憩の御予定のところ、同月6日、大火に依り焼失し、現在土蔵一棟のみ現存している。」
石和本陣の前の小林公園の一角にあし湯がある。

石和八幡宮 道標 平等橋 和戸町由来の標柱
社伝によると武田氏の祖・信義の子信光 (石和五郎) が建久3年(1192)鎌倉の鶴岡八幡宮をこの地に勧請して、石和八幡宮として郷の産土神としたのが始まりで、武田家の崇敬を厚く受け栄えたが、織田信長により兵火をうけ焼失した。
翌年徳川家康がすぐに再興した。
拝殿と随神門は現存する石和町最古の建築物である。
石和温泉の大きな看板柱の先のこんもりと茂った樹の下に幾つかの石碑があり、その脇に万延元年(1860)に建てられたという道標が残っている。「左 甲府身延山」、「右 富士山大山」と判読できる 道標を過ぎると直ぐ、平等川に架かる平等橋である。
平等川は、宇治平等院に比するくらい 「蛍」 が見事であったので平等川となったと言われている。
ローソン甲府和戸店の直ぐ先にあるバス停に和戸町由来の標柱が建っている。この後ろには、石柱などが建っている。
標柱には、「和戸町は平安期この付近を中心として栄えた表門郷(うわとのごう)の遺称である。郷とは奈良時代に50戸をもって編成された行政村落のことであり、地名の由来から、古くから集落が発達していたことが知られる。地内には、在原塚、琵琶塚、太神さん塚などの古墳が点在する。」 と書かれている。

神社 刑場跡 酒折宮道標 山梨学院大学
県営住宅和戸団の先の㈱カクイチの前にある小さな神社で、境内に何故か二宮尊徳の像が建っている。 山崎三叉路交差点の先に刑場跡があり、南無妙法連華経の大きな供養塔などが建っている。
供養塔は、日蓮宗の信者だった法悦が建てたと伝えられる。
中央本線が近づいた出光石油のガソリンスタンドの前に酒折宮の道標が建っている。
道標には日本武尊と大きく刻まれており
酒折宮に日本武尊を祀ってあるとのことである。
酒折宮道標を過ぎると左側に山梨学院大学がある。最寄り駅は、道路右側にある酒折駅である。大学が近くにあるためか、街道脇には、千円で焼き鳥食べ放題という店がある。

酒折宮 善光寺通 甲斐善光寺 天尊体寺
酒折宮は中央本線を渡って直ぐのところにある。
酒折宮は山梨県で唯一、古事記、日本書紀に記載のある古い神社である。日本武尊が東夷征伐の帰りに酒折宮に立ち寄り、 「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」 と片歌で問いかけたところ、御火焚の者が 「かかなべて夜には九夜日には十日を」 と片歌で答えたとの記録があり、この問答歌のやりとりが日本における連歌の起源とされ、酒折宮は 「連歌発祥の地」 と言われている。
旧街道の善光寺入口から参道まで直線で伸びる善光寺通は、片道600mほどある。
道路脇には、コンクリートの壁の中に仏像2体と石碑が安置されている。
山門から甲斐善光寺本堂を望む。
正式名称は定額山浄智院善光寺(じょうがくざんじょうちいんぜん こうじ)と称する。
武田信玄が永禄元年(1558)に川中島の合戦で長野の善光寺の焼失を怖れ、本尊以下諸仏寺宝類を移したのが始まり。境内には多くの木造建築物が立っているが、特に江戸時代に再建された撞木造[しゅもくづくり]の高さ27mもある
本堂(重要文化財)と、朱塗りの山門(重要文化財)は必見である。
甲州街を直角に左折したところにある寺院で、大久保長安の墓がある。
市指定有形文化財となっている絹本紺地金泥阿弥陀三尊像がある。

瑞泉寺 問屋街 上石田のサイカチ 芸術の森公園
瑞泉寺は足利尊氏の四男基氏が神奈川県の鎌倉に開基建立、明応7年武田家の裔である善蓮社こう誉が諸国行脚で鎌倉に寄り、荒廃した当寺の名跡を現在地に移建し浄土宗に改め開山と言われている。
境内には、ひきとり地蔵や子育水掛地蔵などがある。
連雀町通りは、「鍛冶町通り」 と 「桶屋町通り」 の北側にある東西の通りである。
繊維問屋街・食品問屋街を始めとするこの地域の基幹というべき商業基盤があったところである。
過去にさかのぼると、この地は貢川の河川近くであったが、河川は整備され今のような市街地となった。
サイカチは川岸の湿ったところに生える木で、この場所に本樹があるのは、昔の自然の一部を残したものである。また、大小そろって生えていることから、地元の人々は「夫婦サイカチ」と呼んで親しんでいるが、両樹とも雌木である。樹齢は両樹とも約300年と推定される。
公園内には、山梨県立美術館と県立文学館がある。
通名は、美術館道りである。

球形道祖神 称念寺 赤坂 赤坂供養塔
ここは江戸時代村人の互助的な集会協議実行の場所として地域発展の基点となった「寄り合い場」である。
村の道路に河川、農産、慶弔交際または、盆、正月、祭り、相撲大会などすべてのことがここで民主的に協議されたものである。
称念寺には、「くり抜き石枠井戸」 があり、市内では数例しかなく、井戸とともに現存しているのはわずかである。
また、本堂左側に 「石造六地蔵尊」 があり、江戸時代初期の作とされている

本堂には、「紙本著色仏涅槃図」 が秘蔵されている。
称念寺を過ぎて中央本線を越えると、かなり急な上り坂があり、天気が良ければ富士山が後ろに見える。
この日は、残念ながら薄曇りで、富士山は望めなかった。
建立年代は、記録によれば安政年間(1854~59)で、表面を平坦に加工した巨大な自然石で造られている名号塔である。
阿弥陀如来の名をたたえる 「南無阿弥陀仏」を六号名号または名号と呼び、この塔は名号を本尊として供養のために建立されたものであり、念仏講中による信仰的な表現である。

諏訪神社 道祖神 自性院 寺町の家並み
赤坂の坂上に近いところに諏訪神社がある。
境内には、石の祠、御柱、石碑が建っており、ここから市街が一望できる。
赤坂の頂上付近には、道から離れたところに道祖神がある。
ここは中央高速道路の双葉SAに近いところである。
道端には庚申供養碑も建っている。
自性院は、以前は旧塩崎村山本坊沢百坊の中にあり、真言宗のお寺で慈勝院と称したと伝えられていたが、二度の水害にあった為、現在地に移し、新たに曹洞宗のお寺として元亀元年(1570)9月19日に関刹界翁禅師が開山した。山門前には、「ここから浄土に入る」 とあり、裏側は、「ここから穢土に戻る」 と書かれている。 なまこ壁の家があちこちに建っている。

道祖神 泣き石 塩崎駅
中央自動車道の橋脚近くに球形の道祖神がある。 天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。
その途中、勝頼婦人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流したという言伝えがある。
もとは下今井字鳴石のJR中央本線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。
泣き石から100mほどで中央本線塩崎駅である。切符を買おうと小さな駅舎に行くと、上り方面は一旦駅舎の左の道に出て、線路下を潜って階段を上がる事になる。
階段を上がっていると電車が止まり、車掌さんが階段を上がっている私に気づき、しばし待ってくれた。感謝である。

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