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富士街道

 富士街道は東京の練馬区を北東から南西に通る道で、江戸時代には 「ふじ大山道」 と呼ばれていた。富士街道の起点は旧川越街道と都道311号環状8号線の交点から谷原交差点を経由して都道4号所沢線の交点までと言われている。
ふじ大山道は、大山街道、富士街道、道者街道とも呼ばれ、阿夫利山とも言われた大山から富士山への道者が通った道である。

平成27年8月5日(水) ☀   <歩き18.0㎞>
笹目通りと都道311号環状8号線の分岐から富士街道の起点まで約6㎞を歩いて行き、折返すような形で富士街道を歩くこととした。連日の猛暑日で今朝も気温が高かったが、凍ったペットボトルに濡れタオルを巻きつけて出発である。富士街道の起点は旧川越街道の交点でもあり、旧川越街道を少し入った東武東上線の東武練馬の駅近くに北町観音堂があるので、そこから出発することとした。

北町観音堂 浅間神社 清性寺 大山道道標
旧川越街道から東武練馬駅は入る角に北町観音堂がある。
ここには天和2年(1682)の聖観音座像や庚申塔・馬頭観音などの石造物がある。江戸周辺を探訪した小石川の僧が記した紀行文「遊歴雑記」にも文化12年(1815)にここを訪れた記述があり、往来の人々の信仰や赤塚村への分岐道の目印にもなっていたという。
北町観音堂から旧川越街道を東南に進むと左手に浅間神社がある。
境内には、標高37.76mの富士塚があり、一合目から九合目まで標柱が建てられ、山頂に奥宮が建てられている。鳥居の正面に見える社は境内社の天祖神社である。
浅間神社の裏手に清性寺がある。
江戸時代初期から有ったという清性寺であるが、現在は小さな御堂と隣に境内社の白狐稲荷神社が有るのみである。明治時初期までは境内に鐘楼もあったという。
清性寺の入口の招魂碑には、千川上水の開墾者千川家の名前を始め、多くの阿弥陀堂有力者の名前が刻まれている。
旧川越街道を東南東に進むと環状8号線のトンネルの上に大山道道標がある。
旧川越街道とふじ大山道の分岐に宝暦3年(1753)に建てられた道標で、上部の不動明王は後に製作されたものである。
隣にある 「左東高野山道」 と刻まれた角柱は、高野台3丁目の長命寺への道しるべである。この二つの道標は、環状8号線の工事により、元の位置より8メートル程西に移動したものである。ここが富士街道の起点である。

庚申塔 金乗院 須賀神社 庚申塔
大山道道標から環状8号線の左側を進むと陸上自衛隊練馬駐屯地の向かい側に当たるところに赤い字の庚申塔が建っている。
庚申塔の左側面には文政4年(1821)武州豊嶋郡下練馬驛上宿と刻まれ、右側面には「右ふじ大山道」と刻まれている。
庚申塔の脇を左に入って行くと左手に真言宗の金乗院がある。僧行栄が文禄年間(1592-6)に開いたと言われ、山門は三代将軍徳川家光使用の門と伝えられており、墓地には下練馬村の名主であった内田家や木下家の墓がある。
境内には、明暦2年(1656)の一石六地蔵、三代将軍家光のお手植えと伝わる大イチョウなどがある。
金乗院の向かい側に須賀神社がある。
境内には奉納の石灯籠、簡素な手水舎があり、境内中央に神域記念碑が建ち、境内右手に境内社の稲荷神社が建っている。
須賀神社を出て金乗院の更に東南に入ったところにある西光寺へ行く途中に青面金剛の庚申塔が建っている。

西光寺 稲荷神社 馬頭観音 本壽院
庚申塔の脇をまっすぐ進むと左手に真言宗の円明院西光寺がある。
山門前には寛政6年(1794)の三面八臂の馬頭観音、明治25年(1892)のいぼ取地蔵尊、享保2年(1717)の青面金剛の庚申塔、明和元年(1764)の地蔵菩薩があり、墓地の中央には延宝2年(1674)の大日如来座像がある。
西光寺から富士街道に戻るため北東方向に進んで行くと平和台体育館の先の平和台三丁目交差点を右折した左手に稲荷神社がある。
境内の一角には鉄柵に囲まれた御嶽神社があり、その裏手に文久3年(1863)の庚申塔が建っている。庚申塔の側面には 「右大山道」 らしき文字が刻まれている。
練馬自衛隊南交差点で環状8号線に出て左側を進んで行くと三菱自動車販売の手前路地に馬頭観音が建っている。
正面には八王子・田無。府中、右側面に高田・日本橋、左側面に赤塚・所沢などの地名が刻まれた道標になっている。
平和台駅前を過ぎて本壽院入口交差点を左に入ると、直ぐ左手に日蓮宗の久遠山本壽院がある。
本壽院は江戸初期に中山道の板橋宿に一宇を建てたのが始まりといわれ、以来約300年の間板橋宿にあったが、昭和12年中山道の改修工事のため現在地に移転された。
境内には報恩塔、大供養塔などのほか、馬が法衣をまとった僧形の馬頭観音がある。

子育地蔵尊 旧道口 愛染院 地蔵堂
本壽院から街道に戻って進むと街道右手の畑の前に地蔵堂があり、子育地蔵尊と安永3年(1774)の六十六部供養塔が安置され、地蔵堂の脇には 「ふじ大山道」 の道標が建っている 子育地蔵尊の先で右に入って行く富士街道の旧道がある。 富士街道の旧道に入って直ぐ右手に真言宗の愛染院観音寺がある。
縁起によると永享9年(1437)能円坊尊岳が尾崎の地(現在の春日小学校付近)に開いた寺で、寛永年間(1624-44)に現在地に移転されたという。
参道には 「ふじ大山道」 道標、練馬大根碑、大乗妙典六十六部供養塔などが建ち、境内には西山稲荷や六地蔵、弘法大師一千年供養塔などがある。
愛染院から街道に戻って都道443号線を横切って進むと民家の前に地蔵堂がある。
安永3年(1774)と刻まれた地蔵尊の隣には、判読の困難な道標が建っている。

八幡神社 庚申塔 御嶽神社 庚申塔
地蔵堂の先のマルエツ練馬高松店の手前の道を左折して環状8号線にでると向かい側に八幡神社がある。
八幡神社は康平7年(1064)源頼義が前九年の役後、此の地に社殿を建て戦勝に感謝して八幡宮を創建したと伝えられている。境内には享和3年(1803)に大山信仰の氏子によって建てられた不動明王像がある。
街道に戻って先を進むと、さかえ幼稚園の先の路地角に小社があり、元禄5年(1692)の青面金剛の庚申塔が安置されている。かつて、この辺りに高松寺があったという。 庚申塔の先左手の練馬高松三郵便局の路地を左に入って行くと御嶽神社がある。
御祭神は国常立命・大己貴命・少彦名尊の三神で、木曽御嶽神社の分霊を勧請したものである。
境内には服部半蔵が、かつて街道沿いに有った高松寺に寄進した仁王像2体が安置されている。
御嶽神社から街道に戻る途中の畑の脇に小社があり、明治25年(1892)の青面金剛の庚申塔が安置されている。

八雲神社 延命地蔵堂 石塔 馬頭観音
庚申塔の先で街道に合流するところに八雲神社がある。
八雲神社の脇には、境内社の稲荷神社がある。
八雲神社の先でY字路の中央に延命地蔵堂がある。
安永4年(1775)の延命地蔵尊の台石の右側に「みぎ はしど道」、左側に 「左 たなし道 大山道 二里」 と刻まれ、地蔵堂の左には 「ふじ大山道」 の道標が建っている。
延命地蔵堂を左に進んで行くと左の路地角に石塔が建っている。
はっきり読めないが、山の字が見えるので道標か道標を兼ねた馬頭観音と思われる。
石塔の斜め向かい側に明治に建てられた馬頭観音が建っている。

愛宕神社 氷川神社 長命寺 庚申塔
谷原交差点の左手角のガスト谷原店の裏手に愛宕神社がある。
狭い境内に建つ覆屋の中に小さな愛宕神社の社殿があり、脇に境内社の稲荷神社がある。
谷原交差点は歩道橋で渡り、南西に延びる富士街道を進んで行く。
高野台水道局前交差点を左折して長命寺に向かうと笹目通りの向かい側に氷川神社があったので寄ってみた。
氷川神社は江戸時代初期の創建と言われ、本殿は天保6年(1835)、社殿・拝殿は嘉永5年(1852)に建築されたという。境内には皇太神宮・八幡神社・春日神社の境内社のほか、文政12年(1829)の手水石などがある。
氷川神社から笹目通を100mほど西に進むと右手に真言宗の長命寺がある。
長命寺は江戸時代から 「東の高野山」 と言われ、富士街道の起点にある大山道標の隣にも 「左高野山道」 の道標が建っている。
山門は南大門と言われ四天王像が安置され、境内には観音堂、御影堂、地蔵堂のほか、徳川家光の一周忌を追討して建てられた石仏・石塔が安置されている。その数は練馬区最多である。
長命寺から街道に戻って進み、西武池袋線石神井公園駅のガード下を過ぎると右手の路地角に延享3年(1746)の青面金剛の庚申塔が建っており、傍らには、一里塚改築記念碑などがある。

稲荷神社 子育地蔵尊 石神井公園 稲荷諏訪神社
庚申塔の向かいの路地を南へ入ると左手に稲荷神社がある。
境内には、社殿改築記念碑などの石碑が建っており、隣の塚上に稲荷大明神の小さな社が建っている。
街道に戻って進むと入るとウエルシア薬局の向かい側に子育地蔵尊が建っており、手前に青面金剛の庚申塔と聖観音像が安置されている。 街道を進んで石神井中学校の手前から左に入ると石神井公園がある。
石神井公園には東に写真の石神井池があり、西に三宝寺池がある。三宝寺池は自然が保護されており、様々な動植物を観ることができる。
石神井池の脇に稲荷諏訪神社がある。
境内には、東京オリンピック記念碑(玉垣工事寄付御芳名碑)、大正13年(1924)の常夜燈などがある。

旧内田家住宅 三宝寺池遊歩道 氷川神社 三宝寺
稲荷諏訪神社の向かい側に旧内田家住宅が保存されている。
茅葺屋根の民家で、かつて練馬区内でよく見られた家屋である。
住宅の一帯には、区内の道路脇にあった庚申塔などが安置されている。
石神井池から西側にある三宝寺池には遊歩道が整備され、季節の花や樹木を観ながら一周出来るようになっている。
ここには、文明9年(1477)に石神井城が落城したとき、城主豊島太郎泰経が愛馬に乗って三宝寺池に沈んだという伝説の殿塚、その後を追い二女の照姫が三宝寺池に入水したと伝わる姫塚がある。また塚から池を挟んだ向かい側には厳島神社があり、その近くに石神井城跡がある。
石神井城跡の直ぐそばに氷川神社がある。
氷川神社は、応永年間(1394-1428)この地を領していた豊島氏が武蔵一宮の分霊を奉斎して石神井城内に創建したと言われている。
境内には、享和12年(1727)の 「石神井郷 鎮守社 御手洗鉢」 と刻まれた手水石、元禄12年(1699)の豊島泰盈が寄進した石灯籠などがある。
氷川神社の隣に真言宗の三宝寺がある。
応永元年(1394)に開かれた三宝寺は、石神井城を築いた豊島氏の帰依を受けていたが、豊島氏が滅んだ後は、後北条氏や徳川家からも保護を受け、徳川家光の鷹狩の際に休憩場としても使われたという。
境内には、御成門、子育千躰地蔵堂、大黒堂、t大師堂、観音堂、根本大塔などがある。

道場寺 富士街道 地蔵堂 庚申塔
三宝寺の隣に曹洞宗の道場寺がある。
道場寺は、文中元年(1372)石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられている。
境内には、昭和48年(1973)に建てられた三重塔があり、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来が安置されているという。
石神井公園から街道に戻ると街道にはユリノキの並木が続いている。 街道を進むと石神井学園前交差点の左手角に地蔵堂がある。
地蔵堂には風化の進んだ沼辺地蔵尊が安置されている。
地蔵堂を左折していくと庚申塚交差点の右手角に庚申塚に由来する庚申塔が建っている。
こには正徳元年(1711)の光明真言供養塔、元禄5年(1692)の青面金剛の庚申塔、享保19年(1734)の大乗妙典六十六部日本廻國供養塔、元文5年(1740)の石灯籠がある。

地蔵尊2体 地蔵堂 田柄用水跡 富士町交差点
街道に戻ると地蔵堂の先の㈲美鈴建設の看板の下に風化した2体の地蔵尊が安置されている。 富士街道と所沢道の交差する分岐点に地蔵堂が建っている。
地蔵堂には、宝永3年(1706)の地蔵菩薩と仏像らしき姿と文字が陰刻されている欠けた4枚の石板が安置されている。
地蔵堂の先のセブンイレブンの隣に田柄用水跡がある。
ここは明治4年(1871)に田無、上保谷、関、上下石神井、谷原、田中、下土支田、上下練馬の各村へ農業用水を引くために開削された用水路跡である。
入口には、ふじ大山道の道標が建っている。
街道を進むと新青梅街道都道245号線に突当り、ここを斜めに進んで行く。

柳沢庚申堂 六角地蔵石幢 弘法大師供養塔
富士見交差点を横断して進むと街道は伏見通りで分断されるので、右か左のどちらかで迂回して渡って行く。
程なく西武柳沢駅東交差点の右手に柳沢庚申堂がある。中には宝永6年(1709)の青面金剛の庚申塔、享保5年(1720)の大乗妙典六十六部日本廻國塔が安置されている。
西武柳沢駅前を過ぎると左手に六角地蔵石幢が安置されている。
この石幢は、ほぼ正六角形の石柱で、各面の上部に六体の地蔵菩薩立像を浮彫にし、その下に銘文を施している。
「つや」 という女性と 「光山童子」 の菩提を供養するために建てられたという。富士街道と深大寺道が交差するところに建ち、道標を兼ねている。
富士街道が都道4号所沢線に突き当たる左角に弘法大師供養塔がある。
中には、嘉永7年(1854)の弘法大師碑が安置されている。

ここが富士街道の終点である。