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赤穂浪士の歩いた道    (両国~泉岳寺)

古地図を見ていたら赤穂浪士の歩いた道が載っていたので歩いてみたくなり、元禄15年(1702)12月15日七ツ時(午前4時)に討ち入りをしたその日に合わせて12月15日に歩くこととした。赤穂浪士は仇敵吉良上野介邸に討ち入り2時間余の激戦のすえ、その首を打ち取り、主君浅野内匠頭の菩提寺・泉岳寺へ向かった。歩き地図

平成25年12月15日(日)  ☀   両国~泉岳寺  11.2㎞

両国小学校 勝海舟生誕の地碑 尺振八の共立学舎跡
両国駅から両国三丁目交差点で京葉道路を越えた先に両国小学校がある。
この角に播州赤穂の幟が立っていた。
小学校の角地には、芥川龍之の文学碑が建っている。
芥川龍之介の文学碑の隣には赤茶けた大きな錨が2つ並んでいる。
この錨は日露戦争(1904~1905)で活躍した日本海軍の駆逐艦 「不知火」 のものである。
両国小学校の横に両国公園があり、その一角に勝海舟生誕の地碑が建っている。
脇には、由来碑があり、「勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政6年(1823)1月13日この地、男谷精一郎邸内で生まれた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。云々。」 と刻まれている。
両国公園の前が両国小学校の校庭であり、その左側の路地角 (両国4丁目7-7) に尺振八の共立学舎跡がある。ここには、説明板が建っているのみで遺構は残っていない。
尺振八は、幕末から明治にかけて活躍した教育者で明治3年(1870)、福沢諭吉の慶應義塾、中村正直の同人社と並んで 「東京の三大私塾」 と呼ばれる共立学舎を本所相生町に創設したという。

本因坊屋敷跡 吉良邸 江東義塾跡 回向院
尺振八の共立学舎跡から一本南の一方通行角地に建つマンションパイオニアINN (両国3丁目5-7) の前に本因坊屋敷跡がある。
本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた日海 (一世本因坊算砂) を開祖とする家系で名棋士を排出してきた。
往時の広大な吉良上野介邸は、現在、本所松坂町公園という小公園になっている。
園内には首洗い井戸や稲荷社などがある。両国小学校の前のラフィーヌ510 (両国3丁目6-7) の前に吉良邸正門跡が有り、この真裏辺りに裏門跡がある。
季節料理みきや (両国3丁目9) の路地脇に江東義塾跡がある。
夏目漱石が明治19年(1886)から約1年間教師をしていた私立学校江東義塾があった場所である。
当時回向院は吉良邸に隣接しており、本懐を遂げた浪士たちの集合場所となっていたが、血塗れの異様な浪士姿に驚いた僧侶は、入山を拒否した。
境内には、相撲関係石碑群の力塚、鼠小僧之墓などがある。

与兵衛すし跡 一之橋 江島杉山神社 芭蕉記念館
現代に伝わる江戸前の握り鮨が出来たのは、文政年間(1818-29)で小泉与兵衛が考案したと言われている。
与兵衛は、握り鮨を岡持ちに入れて盛り場を売り歩くことから始めて、屋台、裏店での店売りを経て、文政7年(1824) に元町 (両国一丁目) に 「華屋」 という屋号の店を開き大繁盛したという。
赤穂浪士が泉岳寺に引き上げる際に最初に渡った橋である。
万治2年(1659)に架けられ、隅田川から入って一つ目の橋という意で命名された。
橋の上には、首都高速7号線が走っている。この界隈には相撲界の名門中の名門の出羽海部屋や井筒部屋などがある。
一之橋を渡って直ぐ左手に江島杉山神社がある。
鍼術の神様、杉山和一が五代将軍川綱吉から、本所一ツ目に約1万2千㎡の土地を拝領し、総録
(関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた者) 屋敷を建て、その西隣に弁財天を建立したのが江島杉山神社の始まりである。境内には岩窟があり杉山和一の像が安置されている。
新大橋の先に芭蕉記念館がある。
芭蕉は、延宝8年(1680)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住み、ここを拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や 「奥のほそ道」 などの紀行文を残した。
江東区は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981)4月19日に芭蕉記念館を開館した。

旧新大橋跡 芭蕉稲荷神社 正木稲荷神社社 芭蕉像
芭蕉記念館の先に旧新大橋跡の標柱が建っている。
標柱には、「元禄6年(1693)12月この地先の隅田川に架設起工し52日間で完成し長さ百間幅員三間七寸あり」 と刻まれ、橋名は当時両国橋を大橋と称していたのに対して新大橋と名付けられたそうである.
万年橋の手前右手に芭蕉稲荷神社がある。
ここは芭蕉庵のあった場所で、延宝8年(1680)から元禄7年(1694)大坂で病没するまでここを本拠として 「古池や蛙飛びこむ水の音」 などの名吟を残し、ここから全国の旅に出て 「奥の細道」 などの紀行文を著した。
境内には、記念碑や句碑が建っている。
芭蕉稲荷神社から隅田川沿いに入った左手に正木稲荷神社がある。
正木稲荷神社の創建年代は不詳だが、江戸時代には既に此の地に鎮座し、梅暦や江戸名所図会等の書物に記載されている神社である。
往時には柾木の大木があり、隅田川から小名木川へ入る目標ともなっていたことから、柾木稲荷神社と称されていたという。
正木稲荷神社の先に芭蕉史跡展望庭園があり、芭蕉像のほか芭蕉句碑 「川上とこの川下や月の友」 がある。

万年橋 佐賀稲荷神社 赤穂浪士休息の地碑 永代橋
芭蕉稲荷神社の先に小名木川に架かる万年橋がある。
万年橋の袂は、川船番所があったところで説明板が設置されている。また 「ケルンの眺め」 と称した標示板があり、ここから前方に見える清州橋は、ドイツのケルン市に架けられたライン河の吊り橋をモデルにしたそうである。
万年橋の渡り詰めには、「古池や蛙飛びこむ水の音」 のオブジェがある。
万年橋を渡って隅田川沿いに進むと左手に平賀源内電気実験の地碑があり、その先に佐賀稲荷神社がある。
境内には、力石と思われる石があり、中には寶石と刻まれた石がある。この先で左に入ったところに紀文稲荷神社があるが、ここの境内にもたくさんの力石が並んでいる。
佐賀稲荷神社の先で首都高速9号線の下を通り、その先のウチダエスコ株式会社の前に赤穂浪士休息の地碑が建っている。
赤穂47士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名であり、ちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは室井其角(1661~1707)の門下として徘界の友であった。その作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を労ったという。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったという。
赤穂浪士休息の地碑から右折して隅田川に架かる永代橋を渡って行く。
永代橋からは、東京スカイツリーが隅田川の上流に見える。

船員教育発祥之地碑 新川之跡碑 越前堀の石垣石 霊厳島之碑
永代橋の渡り詰め左角地に船員教育発祥之地碑が建っている。
東京商船百周年記念で建立された石碑である。明治8年11月、大久保利通内務卿の命により岩崎弥太郎は 「三菱商船学校」 を設立させ、これが後の東京商船大学となる。当初、この学校は隅田川に成妙丸を繋留して校舎とし、生徒全員を船内に起居させて、近代的船員教育を実施した。
船員教育発祥之地碑から隅田川沿いに進むと小公園があり、園内に新川之跡碑が建っている。
ここは、隅田川に合流する運河があったところで、豪商河村瑞賢が諸国から江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治3年(1660)に開削したといわれ、一の橋の北詰に瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられている。
鍛冶橋通りの右手に越前堀児童公園があり、この一角に越前堀の石垣石が保存されている。
江戸時代この辺りは、越前福井藩主松平越前守の屋敷があった。屋敷は三方が入堀で囲まれ、これが 「越前堀」 と通称されていた。
現在はこの石だけが遺構として残っているに過ぎない。
越前堀児童公園の一角には、霊厳島の碑が建っている。
中央区新川地区はかつて霊巌島と呼ばれており、この地に霊巌寺があったことに由来する地名である。その霊巌寺は明暦の大火後、深川に移転し、跡地は町地として埋立拡張された。

鉄砲洲稲荷神社 浅野内匠頭上屋敷跡 芥川龍之介生誕の地 築地本願寺
高橋を渡って八丁堀に入ると中央小学校の手前を左に入ったところに鉄砲洲稲荷神社がある。
鉄砲洲稲荷神社の創建年代は不詳であるが、寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷座し、八丁堀稲荷と称していたという。
境内には、富士塚や力石がある。
聖路加看護大学の前に浅野内匠頭の上屋敷跡がある。
常陸笠間藩主浅野長直(1610-72)は、正保2年(1645)に播磨赤穂に領地替えとなり、5万3千5百石を領して内匠頭と称した。その子長友の代に分与して5万石となる。
ここは赤穂藩主浅野家の上屋敷があった跡で、忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩は、長友の子である。
浅野内匠頭上屋敷跡碑の少し先に芥川龍之介生誕の地がある。
明治16年(1883)頃、この付近(当時の京橋区入船町8丁目1) に 「耕牧舎」 という乳牛の牧場があり、作家芥川龍之介(1892~1927)は、明治25年3月1日、その経営者新原敏三の長男として、ここに生まれた。
築地7丁目を右折して行くと左手に築地本願寺がある。
元和3年(1617)に建立された築地本願寺は、正式には 「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」 と言う。関東大震災により旧建造物は崩壊してしまったため、昭和9年に現在の形で再建された。
境内には、親鸞聖人像、土生玄碩の墓、間新六(赤穂浪士)供養塔などがある。

築地川銀座公園 歌舞伎座 森田座跡 間知石と切石
京橋郵便局の先に築地川銀座公園がある。
かつては築地川があったところで、川は昭和37年(1962年)に埋め立てられた後、首都高速道路都心環状線が建設され、その上を渡る晴海通りの万年橋の両側、首都高速の上に人工的に築造された中央区立の公園である。
公園内には、「名犬チロリの銅像」 と 「月を呼ぶ」 という佛子泰夫氏の彫刻がある。
築地川銀座公園の直ぐ先に歌舞伎座がある。
歌舞伎座の開場は第1期は明治22年(1889)、第2期は明治44年(1911)、第3期は大正13年(1924)、第4期は昭和26年(1951)と改築を繰り返し、現在のものは平成25年(2013)に開場した。
折しも 「仮名手本忠臣蔵」 が公演(12/1~25)されていた。
歌舞伎座の先の三原橋交差点を渡って左折するとリコービル (銀座6丁目14-6) の前に森田座跡の説明板が建っている。
ここは江戸時代に木挽町五丁目と呼ばれており、人形浄瑠璃の芝居小屋である土佐座や、官許の芝居のうち江戸三座と呼ばれ、歌舞伎を興行した森田座の芝居小屋があったという。
森田座跡の先の銀座東7丁目交差点ある歩道橋の階段下に間知石と切石が保存されている。
ここにある四角錐に切り出した間知石と板状に加工された石は、大名屋敷の石組溝 (排水施設) に使用されていたという。

手水鉢 日比谷神社 浅野内匠頭終焉の地 塩竈神社
銀座7丁目交差点の歩道橋の南側の橋の下には手水鉢が保存されている。
この手水鉢は、龍野藩(兵庫県)脇坂家上屋敷内、祠の参道から出土したもので、「奉献」 「羽団扇
(はねうちわ)の紋」 などが刻まれている。
龍野藩主脇坂淡路守安照は、赤穂城明け渡しの受城使を命じられている。
銀座7丁目交差点から昭和通りを進んで国道15号線に合流して左に進み、東海道新幹線のガードを越えた左手に日比谷神社がある。
慶長年間に江戸城の拡張に当たり、氏子とともに芝口
(現在の東新橋)に移され、その後、東海道線の敷設、道路整備などにより現在地に移された。東海道新幹線ガードの向こう側にあるホテルヴィラフォンテーヌ汐留は、松平陸奥守上屋敷(仙台藩伊達家)があったところである。
新橋5丁目交差点から右に折れて日比谷通り(都道409号線)に出ると右手歩道上に浅野内匠頭終焉の地碑が建っている。
ここは奥州一関藩主田村右京大夫建顕邸があったところで、浅野内匠頭は将軍綱吉の裁断で即日切腹となり、辞世 「風さそふ花よりもなお我はまた 春の名残を如何とかせん」 という哀切の一首を詠んでいる。
浅野内匠頭終焉の地から国道15号線に戻る途中に塩竈神社がある。
江戸時代この公園の場所は、仙台藩主伊達家の中屋敷内にあり、盬竃
(しおかま)神社の境内になっていた。当初、元禄8年(1695)伊達藩内にある盬竃神社本社から分霊を勧請して伊達家上屋敷に創建したもので、安政3年(1856)に伊達家中屋敷に移設したものである。

芝大神宮 西郷隆盛・勝海舟会見之地 泉岳寺
大門交差点の手前の右手路地奥に芝大神宮がある。
芝大神宮は、伊勢神宮の祭神である天照大御神(内宮)と豊受大神(外宮)を主祭神としており、平安時代の寛弘2年(1005)に創建された神社である。
田町の三菱自動車本社(第一田町ビル)の前には、西郷南洲・勝海舟会見之地碑が建っている。
三菱自動車の本社は、旧薩摩藩蔵屋敷跡であり、慶応4年(1868年)3月13日と14日の二日間、江戸城総攻撃を目前にひかえた東征大総督府下参謀西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁勝海舟の会談が行われましたとされている。
折しも義士祭が行われており、境内は大変混み合いっていた。
義士の眠る墓地は線香の煙が立ち上り、墓碑も良く見えない状態であった。
今回は赤穂浪士の歩いた道を中心に歩いたので、次回は泉岳寺界隈を歩き回ってみようと思う。

平成26年12月14日(日) ☀  泉岳寺界隈は参勤交代制の確立により諸国大名屋敷地の確保のため八丁堀から移転した寺院がたくさんある。歩き地図

泉岳寺 保安寺 赤穂浪士忠烈の地 等覚寺
本日も12月14日で義士祭が行なわれて境内は混雑し、墓地に向かう通路は長蛇の列となっていた。
今回はこの界隈を歩き回るため早々に泉岳寺を後にした。
高輪高校の脇を通って行くと泰龍山保安寺がある。
保安寺は、慶長12年(1607)に開創されたという。境内には、延宝4年(1676)、元禄10年(1697)の供養塔と思われる菩薩像が安置され、小社のある坪庭がある。
保安寺の近くに大石内蔵助良雄ほか16名が切腹した熊本藩細川家の下屋敷跡の一部が残っている。
門扉には鍵が掛けられて中に入れないが、この日は縁者であろうか数名の方が入っていた。
門脇には、自刃した義士の名が刻まれた碑、赤穂義士史跡碑が壁に貼られ、大石良雄外十六人忠烈の跡説明板が建っている。
等覚寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で山号を妙覺山という。
等覚寺は、正保2年(1645)に創建したという。
境内には、蔦に覆われた仏像が安置されている。

薬王寺 正山寺 魚籃寺 大信寺
薬王寺は、僧日桂が元和7年(1621)麻布狸穴に創建し、その後3度移転して寛永元年(1624)この地へ移転したという。
境内には、俳人加賀の千代女が 「朝顔につるべとられて貰い水」 と詠んだ井戸があり、本堂脇には沢山の菩薩像、地蔵尊などが安置されている。
正山寺は、仁賀保兵庫頭が慶長15年(1610)開基したが間もなく焼失したため、この地に移転したという。
境内には明王堂があり、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救おうと、慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊である烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が安置されている。
都道415号線に面して建つ赤い山門の魚藍寺は、法誉上人が大分県中津市の圓應寺地中に魚藍院として元和3年(1617)創建し、寛永7年(1630)に三田に移転したという。
門脇に六地蔵尊が安置されている。堂宇は魚籃観世音菩薩を安置した観音堂であり、境内には塩地蔵尊が安置され、その横には亀石なる子宝を願う石がある。
魚籃寺の先に大信寺がある。大信寺は寛永12年(1635)に八町堀から移転し、称蓮社教誉上人源公和尚が中興したという。
入口には石村近江江戸における三味線製作の始祖の碑が建っている。境内には石村近江顕彰碑があり、本堂裏手には墓もある。

長松寺 幽霊坂 玉鳳寺 常林寺
長松寺は浄土宗の寺院で、当初、八丁堀にあったが、江戸城拡張工事に伴い寛永12年(1635)に此の地に移転してきたという。
参道脇には、荻生徂徠墓の標柱があり、山門の松の根元に如意輪観音が安置され、境内の墓地入り口には丸彫りの阿弥陀如来像があり、その奥に儒学者荻生徂徠とその夫人(先妻・後妻)の墓がある。
長松寺の先右手に幽霊坂の標柱が建っている。
この坂は寛永12年(1635年)の江戸城拡張に伴って八丁堀より移転されてきた寺院群が建ち並び、昼でも幽霊が出そうなほど暗い場所であったことからこの名がついたとも言われている。
幽霊坂を上って行くと右手に梧棲山玉鳳寺がある。この寺も当初は、慶長4年(1599)京橋八丁堀に創建され、寛永13年(1636)この地に移転している。
山門脇に体の病を持つ部分に白粉を塗って祈願する御化粧延命地蔵尊がある。京橋八丁堀にあったころ中興住職宗逸が、地蔵橋にあったころの地蔵を修復して化粧をしたところ和尚の顔のあざが消えたことから白粉を塗って祈願する風習ができたという。
玉鳳寺の前の坂を下ると右手に常林寺がある。
う。
常林寺は、結城藩主水野和泉守忠重が開基となり、梅巌禅師を請じて開山として慶長4年(1599)八丁堀に創建し、寛永12年(1635)この地に移転している。境内には、沢山の宝篋印塔と石仏が安置され、本堂の前には狛犬一対を前にした塔があり、中に石仏が安置されている。

正覚院 実相寺 亀塚 済海寺
幽霊坂の上り詰めに近い所に正覚院がある。正覚院は堂宇などが無く民家の庭先のような感じだが、境内に福島正則の供養塔である五輪塔が建っている。
五輪塔には空風火水地の文字が刻まれている。
正覚院の向かいに実相寺がある。
実相寺は、慶長16年八丁堀に開創、寛永12年(1635)この地に移転している。これまで寄って来た移転した寺は、いずれも参勤交代制の確立により諸国大名屋敷地の確保のため八丁堀にあった寺院20数ヵ所の寺がまとまって移転させられたものである。
境内には、会津松平肥後守一族の墓がある。
実相寺の前の道路を挟んだ向かい側に亀塚公園があり、一角に亀塚がある。
円墳状の盛り土が存在することによりその名が付いたが、昭和46年に実施した港区教育委員会と慶應義塾大学文学部との合同調査では副葬品も含めて何も見つかっておらず、古墳であったとは判断できていない。
塚の上には、上野国沼田城主藩主土岐頼煕(ときよりおき)によって寛延3年(1750)に亀山碑が建てられた。
亀塚公園の隣に済海寺があり、法誉上人念無和尚が開山し、長岡藩主牧野駿河守忠成が開基となり、元和7年(1621)創建、以後牧野家の菩提寺となっていたという。
済海寺には、安政5年(1858)に締結された日仏修好通商条約通称により、翌年にフランス公使館が設置された。境内には観音堂がある。

亀塚稲荷神社 慶應義塾図書館 綱坂 イタリア大使館
済海寺の先の坂の途中に小さな祠の亀塚稲荷神社がある。
境内には、弥陀を表す記号(種子)を上部に刻んだ弥陀種子板碑がある。
5基のうち3基については、文永3年(1266)、正和2年(1313)、延文6年(1361)の造立年が陰刻されており、文永3年のものは港区で現存する板碑で最古のものである。
国道1号線の角に建つ慶應義塾大学三田キャンパス内にある慶應義塾図書館は国の重要文化財に指定されいる。
図書館の前に福沢諭吉の胸像が建っている
慶應義塾大学三田キャンパス内を通り抜けて西館を出たところに綱坂がある。
この坂は、羅生門の鬼退治で有名な平安時代の武士渡辺綱
(わたなべのつな)が、この付近で産まれたという伝説による。
綱坂の右手にある一角にイタリア大使館が建っている。
元禄16年(1703)2月4日、赤穂浪士47名のうち、大石内蔵助の長男大石主税を含む10名が、ここイタリア大使館内の庭で切腹している。
現在、館内にある池の一部は、その切腹場所を掘り起こして造られたという。

春日神社
イタリア大使館から国道1号線に出て都営三田駅方向に向かうと春日神社がある。
春日神社は、天徳2年(958)、武蔵国の国司、藤原正房が大和国春日大社を勧請し三田邑に祀ったのが創建と伝えられており、江戸府内唯一の春日社として、徳川将軍をはじめ江戸城登城の諸大名の崇敬も厚かったと言われている。境内には、赤羽稲荷、福徳稲荷の2社がある。