安永3年(1774)の岩船地蔵菩薩像

 我がふるさと、新宿が歴史の舞台の登場するのは、戦国時代の末期である。それからほぼ一世紀後、江戸時代前期、延宝元年(1673)、海上郡塙村出身の僧長賀が、天文年間に廃寺となった宮本村の王子大明神(現東大社)の神宮寺を新宿村に再建した。
 秀蔵院の寺名が記録の上に初めて見えるのは、天和3年(1683)、次いで、元禄7年(1694)8月、秀蔵院は宗門改めを命じられ、新宿村の住民は一人残らず真言宗に属し、常陸国鹿島神宮寺の末寺秀蔵院の旦那であるとの報告を提出している。このように秀蔵院は、王子大明神の別当寺としての立場に加え、鹿嶋神宮寺との本寺・末寺の関係に包みこまれ、寺請制度による民衆統御に重要な役割を果たしていった。
 その一方で、歴代の住職は、寺内に修行と学問の道場を開き、寺子屋を開いて、仏法の伝授と地域の師弟の教育に尽くした。境内には、嘉永7年(1854)正月、弟子たちによって建立された長豊大和尚の筆字碑などがある。また、中世以来の遺品の板碑5基をはじめ、安永3年(1774)に建立された岩船地蔵尊など、多彩な庶民信仰の跡を伺わせる遺品が多く残っている。
 明治元年(1868)、明治維新を迎え、神仏分離令が出されて多年に及んだ神仏混淆の風が打破された。その中で、同年11月、新宿村方は、秀蔵院と王子大明神との関係を断ち、その結果、秀蔵院の経営の実際は、新宿村方の手に委ねられるにいたり、今日に至っている。

観音堂

観音堂内陣

手水舎

宝篋印塔

出羽三山碑

秀蔵院由緒碑

中世の板碑5基