江戸時代の儒学者。文化8年上野山田郡桐生新町(現群馬県桐生市)に生まれた。はじめの名を雇一または甎と称し、のちに温と改めた。また文哉・柳村・月鴻・慎静舎などの号がある。
 天保元年(1830)11月佐原に来住して塾を開き多くの門弟を教授した。
 その学識は朱子学を主とし、また博学をもって知られ、国史に通暁、医術にも明るく、西洋の学をわきまえていた。
 「制度通増補」 を著そうとして、度量を考究したが、稿を脱するにいたらず、嘉永2年(1849)7月8日病死した。
 行年39歳。父百成の側に葬る。
 著書は 「慎静舎詩集」 他7冊ある。

 浄土宗理智山照徳院法界寺は、今から約400余年前天正11年(1583)に、旭蓮社天誉上人により開創されたと伝えられている。
 現在の本堂伽藍は十間四面の100坪で、享保元年(1716)より5年の歳月を要し建立され、時代の変遷と共に、庫裡、書院、客殿、釈迦堂、檀信徒会館、弁天堂、奥の院の不動尊、鐘楼堂、表門、裏門など七堂伽藍の整備がなされ、今日に至っている。
 また、法界寺は徳川家との由来が深く 「葵」 が寺紋として使われており、本堂の位牌檀には、歴代将軍家の位牌が祀られている。末寺として、浄光寺(香取市飯島)、利益寺(香取市長崎)を有している。墓域内には、佐原開拓者のひとり小井戸貞経、儒学者葛井文哉、侠客佐原の喜三郎、江戸昌平學に学び神童といわれた渡辺徳蔵らの墓石がある。
 梵鐘は本堂裏手の山腹にある鐘楼堂にかかっており、制作者は文化勲章を受章された鋳金家香取秀真氏と子息正彦氏である。秀真氏は子規門下の歌人としても著名である。さらに当地より徒歩10分の所に、当山で最も歴史の古い(鎌倉時代)、「乳出し不動」 ともいわれる奥の院清水不動尊がある。
 また、寺宝、文化財として市指定有形文化財の 「絹本着色浄土曼荼羅」 3幅(浄土変相図)、等身大の 「釈迦涅槃像」.「絹本着色法然上人一代記」 4幅、徳本名号、弁栄上人書画数幅等がある。また、当山12世、13世の頃に相当する宝暦年間に、阿弥陀如来を安置する近在の48ヶ所の寺院を巡礼して歩く、阿弥陀講の 「札打ち」 が勧請創設され、現在も3月28日より4月2日まで連綿として絶えることなく年中行事の一つとして行われている。

山門

山門に掛かる理智山の扁額

理智山法界寺寺標

 文化3年(1806)下総香取郡佐原村新田(現香取市向津)に、百姓武右衛門の長男として生まれる。姉と妹の3人兄妹であった。21歳頃江戸に出て、浅草茅町の普化宗一月寺で、僧としての修行をした。のち獄中で、記憶だけを頼りとして、「朝日逆島記」 を書いたので、西の日柳燕石と比較される知性派博徒である。
 この書は江戸の東大牢で書き上げ、寺社奉行、勘定奉行、町奉行に提出したところ、幕府上層部は驚いたとの記述がある。
 この功績により、弘化2年(1845)5月9日に放免されたが、わずか1ヶ月後、6月3日労咳により没する。
 行年40歳であった。
 この 「朝日逆島記」 は江戸時代行刑史の貴重な文献となった。

法界寺の由来

佐原喜三郎の墓

葛井文哉の墓

阿弥陀如来像

大乗妙典六十六部日本廻国塔

三界萬霊塔の地蔵尊

阿弥陀三尊碑

本堂に掛かる法界寺の扁額

法界寺本堂

山崎弁栄上人(1859-1920)の釈迦像碑