慶長5年(1600)、一人の行者が利根川を望む山に霊気を覚え錫をとどめ、この普賢と名乗った行者により山は開かれ、大日山と号した。
 江戸時代の書物の記録によると、鎮守神の山 「神崎の杜」 「愛宕権現の山」 「愛宕山」 そして当山大日如来の山 「大日山」 が神崎三山とされていました。明治時代の廃仏毀釈により閉山に追い込まれましたが、「大師信仰」 が伝わり戦後に真言宗醍醐派当山派修験道の寺として復興されました。
 この大日山は茨城から見る山容を霊山として 「御山さま」 と呼ばれ信仰されてきました。仰々、霊山とは神仏の住まう山である須弥山を模して、寺が建立されたり、信仰される山として俗世間から結界が張られる場所です。
 そして山門とは、霊山の結界の入口として、浄心を持つ者だけが立ち入ることを許される結界門であります。
 この山門は、茨城県神栖市、有限会社平成の経営者である才賀将勝氏の枕元に神崎御山の不動明王が立ち、「この世で魂の修行をする衆生が人生の荒波を越えて神崎御山に来るように門を用意しろ」 との言葉を伝えました。この言葉に従って建立された門は有限会社平成社員の努力と浄心が込められています。

神崎寺山門

参道石段

参道突き当りの不動明王像

山門沿革

神崎寺寺標

神崎大師標柱

弘法大師像

御堂に掛かる観音堂の扁額

観音堂内陣

寶珠稲荷

本堂の更に上にある観音堂

本堂に掛かる神崎寺の扁額

本堂前から街道を望む

六地蔵尊

本堂上り口の不動明王像

手水石