幼児より、千葉氏に学び16歳より飯ノ岡村の歌人、神山魚貫に入門し和歌を学んだ。20歳の時江戸に出て、魚貫の知人、国学者の小山田与清に国学を学んだ。帰郷してからは、農業の傍ら、独学で神皇正統記を習い、さらに和文・国史を修め、歴史制度の研究に努めた。仲輔の学力を認めた佐倉藩主堀田正睦は、家臣の学問上達を願い佐倉藩に招いた。程なくして勇退し、志を遂げるため、友人で国学者の穂井田友忠を頼り、京都へ上り国学を極めた。この中で 「日本国は天皇が治めるべし。」 と唱えて、44歳で暗殺される。のちの坂本龍馬、西郷隆盛、木戸孝允らの大政奉還の先駆けとなった人物である。
 さて、この墓石の裏面には、京都で死亡と記してあるのみ。墓の場所等は不明で猿山の小坂光先生が再三京都へ出向き、清閑寺境内に、仲輔の息子岱助(月杵)が永代経にて現存解明。
京都清閑寺の戒名・因幡堂寂千桃坊号梅室芳山居士

国学者・椿仲輔説明碑

弘法大師像

大師堂

弘法大師像

観音堂

金色の如意観音

地蔵菩薩

六地蔵尊

宝暦13年(1763)の一面六臂の青面金剛の庚申塔(右)

享保18年(1733)の手水石

国学者・椿仲輔の墓碑

堂内に掛かる薬師如来の扁額

薬師堂

中央に黒の厨子が祀られている