安永2年(1773)9月造立の、自然石に彫られた俗称髭文字(宗祖日蓮の筆跡をなぞった書体)の題目塔、7年後の安永9年(1780)8月造立の3mにのぼる大きな題目塔のこの二基は、いずれも基壇とその下部に 「氏子中」 と銘文して、当時の下保谷村鎮守三十番神に奉納され、それ以来この場に220年余を経て立っています。下保谷村は中世文明年間(1469-86)前後とみられる草創以来、日蓮宗下総中山門流の宗派圏に入り、村びとすべて法華の信徒となって、この宗派に独自の三十番神を村の鎮守神に祀ったのです。江戸時代末までの神社は神仏習合でしたから、三十番神の氏子で構成する番神溝は、祭礼ごとに御奉謝を開いて題目を奉唱しました。ニ基の題目塔は鎮守に村の大願を祈念して、題目一千部と二千部の奉唱を達成した記念の塔です。
 こうした神仏習合の神事の習俗は、明治の維新政府によって神仏分離され、このとき廃仏毀釈と呼ばれる事件も起きましたが、氏子一同は祭神の三十番神々像 (西東京市指定丈化財第29号) を別当寺であった福泉寺に移して保存し、鎮守境内に番神信仰の伝統を象徴する二基の題目塔を残して守り続けました。このとき以降杜号天神社に代りましたが、祭神の菅原道真は三十番神中の一柱です。(西東京市教育委員会)

境内社

天神社本殿

手水舎

吽形の狛犬

天神社拝殿

阿形の狛犬

拝殿に掛かる天神社の扁額

 天神社の前身は、天正期(1573-1591)の初めと推定される創建の時代から、江戸時代終りの慶応4年(1868)まで、日蓮宗の法華神道にもとづく三十番神として、下保谷村の鎮守社に祀られていました。これが天神社に代った由来は、維新政府が明治元年(1868)神仏分離令に次いで発令した 「法華三十番神禁止」 によるものです。
 三十番神は日本の神祇の中から善神三十座を選んで、その神々が一か月三十日間番代りに日蓮宗の信徒を守護するという信仰思想に依っていますが、この三十番神が村鎮守であった享和元年(1801)から、鎮守境内に番神に近縁の摂社として、菅原道真石像を神体とする天神社が祀られていました(現、境内西旧社殿)。道真が番神の摂社として祀られていたのは、善神三十座中に天満天神=菅原道真が配列されていた由緒によるものです。この由緒を幸いとして、禁止令にあった氏子は、ただちに菅原道真石像を本殿に移し、三十番神の社号を天神社に改めました。
 『武蔵保谷村郷土資料』 (高橋文太郎著) は、禁止令後約70年を経た昭和10年にいたっても、番神講の御奉謝が厳粛に行われていた様子を取材していることから、村鎮守三十番神に対する伝統的な氏子の崇敬が理解できます。なお三十番神神像は市指定文化財第29号として、今当時の別当寺であった福泉寺に収蔵されています。 (西東京市教育委員会)

天神社由緒 (菅原道真石造)

鳥居に掛かる天神社の扁額

石鳥居

社務所

題目塔解説

南無妙法蓮華経題目塔二基