高萩宿の歴史
関東を支配していた小田原北条氏(後北条氏)は、北からの勢力に対抗するため八王子城、川越城、松山城、鉢形城を固め、兵員や軍事物資の移動のため街道や宿場(伝馬)を整備しました。そのひとつとして八王子城から松山城、そして鉢形城を結ぶ街道が整備され、天正年間、織田信長が本能寺の変で亡くなる頃、高萩に新たに宿場が設けられ、二・七の六斎市(2日・7日・12日・17日・22日・27日の6日間市が立つ)が実施されました。隣の坂戸宿もこの頃新設されました。
江戸時代に入り、東海道平塚宿(神奈川県)と中山道熊谷宿との往還道として利用される一方、八王子千人同心が日光(江戸幕府初代将軍徳川家康を祀る東照宮がある)の火の番を交代で勤めることになり、後北条氏が整備した街道が利用され、承応元年(1652)、八王子から高萩を南北に貫く道は日光千人同心街道(日光脇往還)と呼ばれました。高萩宿は、八王子から6番目の宿場でしたが、八王子千人同心一行は通過するだけで、宿泊することはありませんでした。旅宿というよりは継立宿としての性格が強い宿場でした。高萩宿は参勤交代で大名が利用する街道ではなかったため、本陣・脇本陣はなく、旅籠が数軒(「亀屋」「清水屋」他)ありました。また、宿場の最高責任者である
「問屋(といや)」 が2軒あり、交代で役職を勤めていました。またそれを補佐する年寄(役職名です)がいました。全体では宿場通りの左右に30軒ほどの家並みがありました。
問屋の主な仕事は 「人馬の継立業務」 でした。人馬の継立とは、幕府関係者(八王子千人同心)や大名の家来や大きな寺社関係者が旅をする際、これら関係者の荷物を次の宿場(狭山の根岸宿、坂戸宿)まで、高萩村・下高萩村の村民に馬を使ったりして運ばせる仕事です。これを
「伝馬」 といいます。ただし費用は、朱印状(証明書)持参の場合は、規定数以内ならすべて地元負担でした。両村だけでは人数が足りない場合、女影村・大谷沢村・下大谷沢村などに協力してもらいました。これを
「助郷」 といいます。伝馬費用は地元負担であったため高萩村を苦しめ、安政2年(1855)の記録では、高萩下高萩村併せて家数は112軒でしたが、以前と比べると47~8軒も減ったといいます。伝馬の負担はいかに大きかったかが分かります。
明治に入り宿場としての役割は終わりますが、高萩宿は変わらず地域の中心でした。明治11年11月に黒須警察署高萩分署が新設され巡査5人が配属されました。また翌明治12年12月高萩郵便局が創置されました。郵便局の建物は現在も残っていますが、警察署高萩分署については明治12年の大火で焼失、光全寺に仮分署が置かれましたが再建されず、同16年に改めて交番所が上宿に置かれました。
清水喜右衛門(清水万次郎・高萩の万次郎)と金毘羅大権現
幼名 「万次郎」 通名 「喜右衛門」 成人名 「信孝」 、文化2年(1805)6月14日生~明治18年(1885)5月22日没。
「鶴屋」 を屋号とし十手持ちでした。先代の喜右衛門こと父弥五郎は名主でしたが、文化9年(1612)退役しました。時に万次郎8歳であったため、組頭だった井上文八が名主役に就きました。万次郎は高萩宿では宿役人の
「年寄」 を勤め、文久元年の和宮下向の際、中山道熊谷宿から助郷の命令書が届いた折りには、宿役人年寄として問屋とともに熊谷宿へ赴き助郷免除を嘆願しています。また、慶応2年(1866)に起こった武州一揆の際は、宿はずれに出て一揆衆に酒や飯を振る舞い、高萩宿での打ち壊しを回避させています。
侠客としても有名で、近隣の侠客から一目置かれるとともに清水の次郎長とも親交がありました。若かりし次郎長を匿ったことが縁で、その親交は喜右衛門の晩年まで続きました。明治15年11月には、次郎長の養子になった放浪の写真師天田愚庵が喜右衛門宅を訪れ、喜右衛門の写真を撮影しています。同年12月喜右衛門は次郎長に年賀を届けています。「鶴屋」
は 「亀屋」 の向かい側にありました。生業については、明治9年 「青物問屋」 を営んでいたことは明らかですが、その前後についてははっきりしないところがあります。家は、明15年末以降のところで下宿から上宿に転居しています。
当地の 「金毘羅大権現」 碑は、喜右衛門が慶応2年に願主として建立したものです。以来毎年祈願を続け 「祈願無事永続」 をもって明治15年12月に鶴屋で
「金毘羅講」 が催されました。そのとき現在の日高市・飯能市・坂戸市・鶴ヶ島市・狭山市・入間市・所沢市をはじめとした県内の他、府中市・青梅市、遠くは山梨県そして静岡県の計57村宿町湊から延べ78人にのぼる有力者(大半が戸長)が世話人として名前を連ねています。中には
「山本長五郎(清水次郎長)」「宮崎文吉(津向文吉)」「宮下仙右衛門(枡川仙右衛門)」 など講談や小説に登場する有名人は侠客もありました。この他
「関小次郎こと小金井小次郎」 の息子和十郎の名前もあります。
金毘羅大権現碑の文字は 「異体字」 という、読み・意味は同じでも、通常の漢字と異なる貴重な文字です。
なお、石尊大権現の御神燈に刻まれた 「高萩駅(駅は宿駅のこと)」 は、この地に高萩宿が存在したことを示す唯一の証です。また同じく御神燈に刻まれた
「鍛冶屋内手」 は、明治に入り消滅した地名(今の下宿の一部)です。いずれも郷土の歴史を語る貴重なものです。なお、この御神燈の文字と金毘羅大権現の文字は同一人物(柴梅道人)によって書かれたものです。「道人」
とは書道家の雅号の下に付ける文字です。
金毘羅大権現碑
高萩宿説明
安政5年(1859)の石尊大権現御神燈