この樹木は初代の 「南朝忠臣・新田義興公の首塚の松」 である。時は足利尊氏が室町幕府を開いた室町時代、これに対し南朝の後醍醐天皇を奉じた新田義興公は勇敢で機略に富み、戦上手で幕府側は持て余していた。
そこで幕府側は幾多の戦略を廻らし、義興公はその謀略により正平13年(1358)10月10日、「矢口の渡し」(多摩川)で急襲され、船中で13人の家来と共に自刃した。義興公の首は足利基氏の陣屋(大将軍、入間市駅説)で首実検の後、当神社拝殿前に丁寧に葬られた。
その目印に松と杉の枝を挿し、その松が根付き 「初代の首塚の松」 となったと伝えられている。この松には幹の途中で桜が咲き一層神秘性を誘うものがあったが、昭和34年(1959)9月に襲来した超大型の伊勢湾台風で甚大な被害を受け枯死するに至った。現在は2代目松が大きく聳え立っている。
この物語は太平記の 「矢口の渡し」 (義興公自害の事)事件に記載されており、当時の貴重な歴史を残すものである故、保存をして後世に残そうとするものである。
(愛宕神社)
愛宕神社の御祭神の一柱・南朝の忠臣である新田義興公は、新田義貞の子で、父の亡き後、正平7年(1352)宗良親王を奉じて新田一族と共に鎌倉の足利軍を攻めて鎌倉を一時占拠している。
その後も義興公は、足利軍の討伐を度々試みたが果たせず、正平13年(1358)10月10日、多摩川下流の矢口の渡しで、足利幕府の者により、義興公はに従った13人の勇士と共に謀殺された。
その後、主従の首は、入間川(狭山市)の足利基氏の陣で首実検された後、主は愛宕の社前に葬られ 「首塚」 となり御祭神になられた。
その際 「首塚」 の目印に松・杉2本の枝を挿したと云う。その松が根付き大きく育ち聳えていたが、伊勢台風で枯死する。現在の松は2代目で、隣接の古株が初代
「首塚の松」 である。
義興公の胴体は、大田区の矢口の渡し近くの新田神社 「胴塚」 に埋められています。従者は神社周辺に埋められ、十三士の塚が散在したが、都市化の波で貴重な塚が消え風化を憂慮して
「十三塚」 をこの地に移設した。(この物語は古典太平記に掲載されている) 「十三塚」 は、拝殿の前、向かって左側にあります。
愛宕神社の御祭神のお一方新田義興公は、南朝を開いた後醍醐天皇の忠臣・新田義貞の次男で、父の意志を継ぎ、上杉憲顕らと連合して、宗良親王を奉じ南朝再興の為、鎌倉の足利軍を攻めて鎌倉を一時占拠したこともある勇猛な武将である。その後も義興公は度々、幕府討伐を試みたが果たせず、正平13年(1358)10月10日、足利基氏の家来等により、多摩川下流の 「矢口の渡し」 で、義興公と従者13人の勇士と共に謀殺された。義興公28歳の時である。義興公主従の首は、入間川(狭山市)にあった関東管領・足利基氏の陣に運ばれ、首実検されたと 「太平記」 に書かれている。このあと、義興主従の首は、扇町屋の愛宕の社などに埋葬され、御祭神になられたといわれている。義興公と共に討ち死にした勇者を祀ったといわれる十三の塚が、愛宕神社を廻り散在していたと、江戸時代編纂された新編武蔵風土記稿に書かれている。
「新田義興公首塚」 並びに 「首塚の松」 由緒
新田義興公と十三塚
拝殿に掛かる勝海舟揮毫「愛宕山」の扁額
志茂町屋台倉庫
(天保7年(1836)の屋台が収蔵されている)
御神燈が建つ参道
愛宕神社二の鳥居
手水舎
「初代首塚の松」の保存について
十三塚碑
(新田義興公従者十三士の塚)
芭蕉句碑
(ひらひらと あぐる扇や 雲の峰)
初代首塚の松
境内社の蚕影神社
新田義興公首塚之松碑
境内社の日枝神社
愛宕神社本殿覆屋
神楽殿
阿形の狛犬
吽形の狛犬
愛宕神社拝殿