度重なる水害に苦しめられた羽田地区
羽田は多摩川河口の砂州の上にあったことから、度々、水害が発生しました。天正17年(1589)から安政6年(1859)の間に62回の大洪水があったことが記録されています。明治以降の水害は、明治11年(1878)、17年(1884)、40年(1907)、43年(1910)の洪水は甚大な被害をもたらしました。
羽田レンガ堤の建設
「水利水運の利便性を高めかつ洪水及び水害を防ぐ」 ことを目的として、大正6年(1917)9月に内務省によって 「多摩川改修計画」 が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヶ年)しました。「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所、昭和10年10月発行)には、「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡築する計画であったが、土地の状況を考慮して、工法を変更、旧堤表法肩に鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)を築き、所々に陸閘を設け、堤上は道路に利用することとして、河川住民及び一般の利便を増進させた。」
と記されています。また人が堤防をまたぐ為の階段も設けられました。
羽田レンガ堤と人々の暮らし
レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ、桟橋、造船所、生簀、材木置き場、作業場があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などが住んでおり、船宿や筏宿もありました。昭和20年(1945)9月21日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。
レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水被害も無く安心した生活を過ごすことができました。そして、昭和20年4月15日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害から、そして戦災から多くの人々の生命財産を守りました。
昭和48年(1973)、高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。
(大田区教育委員会)
古くから、羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎市)を渡る 「羽田の渡し」 が存在していたという(現在の大師橋下流、羽田三丁目で旧城南造船所東側あたり)。
この渡しは、小泉六佐衛門組が営んでいたので、「六佐衛門の渡し」 とも呼ばれていた。渡し場付近の川幅は約40間(約80m)ぐらいで、「オーイ」
と呼ぶと対岸まで聞こえたという。
その昔、徳川家康が狩りに来た帰りに、お供の者と別れて一人でこの渡し場に来たところ、船頭は家康とは知らずに馬のアブミを取ったという伝説が伝わっている。ここで使われた渡し船は、20~30人の人々が乗れるかなり大きなもので、この船を利用して魚介類、農産物、衣料品など、生活に必要な品々が羽田と川崎の間を行き来していた。江戸の末には、穴守稲荷と川崎大師参詣に行き交う多くの人々がのどかで野梅の多かった大森から糀谷、羽田を通り羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差し支えるので、この渡しの通行を禁止して欲しいと公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
また、明治後期から昭和初期にかけて、川遊びをする船も往来していた。物資の交通だけでなく、人々の生活、文化の交流など大きな貢献をしてきた羽田の渡しは、時代の変化とともに多くの人々に利用されたが、昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。
(大田区)
大師橋南詰(神奈川県側)に建つ羽田の渡し碑
羽田レンガ堤と階段の一部
旧大師橋親柱
羽田の渡し碑
羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革