歴史を辿ると天明より寛政4年に至る十余年の殆ど毎年は大きな台風が本土を襲い、其の都度、洪水浸水に悩まされつつありました。其の上、霊峰の富士山が大噴火を起して広範囲の田畑が降灰で埋まり、作物は全滅に瀕し、一面が見る影もない有様。数年間に亘り苦境を余儀なく打ちのめされたのである。以後、明治42年までの75年の長期は至極平穏たる年月であった由。それが翌43年の秋には忘れていた一大台風が来襲するや、忽ち多摩川は洪水化して各所で堤防は寸断、決壊、濁流は渦を巻いて民家を押し流す等の大暴れ惨めたる様相は筆舌を絶する恐ろしい有様であった。後まで聞き及んでいる。其の数年後のことである。押立村より程近い多摩川の中程に仏像らしき物が流れつき、同村の篤志家が自宅の納屋に大切に保存されているとの噂を耳にした先輩の古老数人が我が町で譲り受くる可く相談がまとまり、思い立ったが吉日、善は急ぐべしと押立村の御当家に出向き意を解して丁重に話を進めてゆきました。数々の言い分をよく聞き心からよく理解された模様でした。漸くその誠意を呑んで戴き快諾が得られ本交渉は誠に気分よく平和的に成立いたしたのでありました。丁重な謝礼で即刻地元に持ち帰り、かねてよりの予定地である大山道の十字路(現大映通り十字路)たづくり橋の袂、巨木の榎の下に心からなるお堂を設立安置いたしました。以来、榎観音と親しまれ尊敬されて平穏に過ごして参りました。以上が古老より伝えられた由来でした。あの時代に克くも積極的、且つ勇気をもって町も福したされた先輩諸氏に心からなる敬意と大きな拍子贈り・・・
聖観音菩薩立像
多摩川白衣観音菩薩の由来
多摩川白衣観音祠