押立渡しは、押立と対岸の押立南部(現稲城市)とを結んでいた渡しで、押立村が経営していたことからその名があります。新編武蔵風土記稿(幕末の地誌)の 「押立村」 の項には、「土橋、多摩川に架す、長さ34.5間、4月より9月までは橋を廃し、舟を用いて渡せり」 と誌されており、多摩川の水量の多い時期には渡船による往来の便が施されていたようです。この渡しは、下流の多摩川原橋(昭和10年)や上流の是政橋(昭和16年)の開通によってその存在性が薄くなり、次第に消えていったようです。(平成元年12月 府中市) 

押立渡し跡のモニュメント