甲州街道は、江戸時代初めの慶長8~10年(1603-05)に整備された。初め、江戸日本橋と甲府(山梨県)を結んでいたが、後に下諏訪(長野県)まで延長された。この甲州街道が多摩川を渡る 「渡し」 は、何度か移動され、それにともなって甲州街道の道筋も変わったことが知られている。そのうち、慶安年間(1648-51)から貞享元年(1684)まで使われていたのが 「万願寺の渡し」 である。台地の上をたどってきた甲州街道は、国立の青柳で段丘を下り、多摩川の河原に下りた。この段丘を下る坂を、昔は 「貝殻坂」 と呼んでいた。(現在は、普済寺の西側、富士見町五丁目にある番場坂を貝殻坂とも呼んでいる。)
 貝殻坂の名は、江戸時代に発行された 「四神地名録」「武蔵国名勝図絵」「新編武蔵風土記稿」「武蔵野話」 などの書物に中にみられる。そのうち、文政11年(1828)に感性された 「新編武蔵風土記稿」 の芝崎村(現在の立川市)の項には 「貝殻坂、青柳村と当村との界にあり、土中をうがてば蛤の殻夥(おびただ)しく出づ。土人の話に古へはこの辺も海なりしと伝ふ。」 と記されている。
 よって本橋を貝殻坂にちなみ根川貝殻坂橋と名付けるものである。

根川貝殻坂橋について

根川貝殻坂橋

貝殻坂

右脇に貝殻坂標柱が建っている