拝島橋の上流百メートルほどのところに、その昔、「拝島の渡し」 と呼ばれる日光街道の渡し場がありました。日光街道は、江戸時代初期の慶安年間(1648-52)に、八王子千人同心が日光勤番に赴く際の往還路として開かれた公道で、江戸時代を通じて上州(群馬県)方面と八王子を結ぶ重要な街道として機能していました。
この渡しの管理は拝島村によって行われ、数人の船頭さんが常駐して随時船を往復させていました。
もっとも、船を運行したのは春から秋にかけてで、冬の渇水期には数艘の船を流れに浮かべ、その上に板を渡した浮き橋に仕立てることもありました。文久元年(1861)の記録によると、渡し賃は平水時が一人24文、大水の時は割増料金を徴収する、といった定めがありました。
明治時代に入っても、なお盛んに利用され、昭和10年代には八王子~川越(埼玉県)間を走る定期バスが、この渡し船を利用して多摩川を渡ったこともありました。しかし、明治後期から昭和初期にかけ、鉄道網・道路網の整備が進み、拝島の渡しは次第にすたれ、昭和20年ごろにはほとんど利用されなくなり、仮設の木橋が架けられて、細々と機能しておりました。
その後、昭和30年、拝島橋が開通し、この地は再び重要な渡河地点となって今日に至っています。
拝島の渡し碑