もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした。左の絵は、「江戸名所図会」 に描かれた 「松橋弁財天窟(いわや)石神井川」 ですが、ここでは
「この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。」 とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。
崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。「新編武蔵風土記稿」
によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。
また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の瀧と呼ばれていました。旧滝野川村付近には滝が多く、夏にこの辺りで滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の
「名所江戸百景」 や 「東都名所」 をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのです。
滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は、昭和50年(1975)前後に石神井川の護岸工事が行なわれるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせています。
(東京都北区教育委員会)
松橋弁財天堂窟跡説明
正面の壁辺りが松橋弁財天洞窟跡
北区立音無もみじ緑地
松橋弁財天洞窟跡前の水辺
たきのがわばし橋標(親柱)
滝野川橋上流域
両岸に桜並木の遊歩道があり、上流は南西に曲がっている
滝野川橋下流域
両岸に桜並木の遊歩道があり、下流は北東に曲がっている
滝野川橋橋標(親柱)
東詰めから見た滝野川橋
下流左岸から見た滝野川橋