江戸時代に成立した参勤交代制度により、大都市江戸には日本各地から多くの大名が集まり、その家族や藩士、奉公人などとともに日常生活を送っていました。そして、各大名に対しては、将軍より
屋敷地が下賜されました。
 延宝8年(1680)の段階で、加賀藩前田家は本郷邸(現東京大学周辺)を上屋敷に、駒込邸を中屋敷(現本駒込6丁目周辺)に、板橋宿に面する平尾邸(現加賀1・2丁目、板橋3・4丁目周辺)を下屋敷に定めています。上屋敷は藩主と家族が住む公邸に、中屋敷は隠居した藩主などの住居に利用されました。
 下屋敷の平尾邸は、約21万8千坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷でした。邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝などが各所に配された池泉回遊式庭園が展開していました。その規模は本国金沢にある有名な大名庭園、兼六園の約7倍の広さがあります。
 平尾邸は、通常は藩主と家族のための別荘として使われており、かれらが保養や散策に訪れ、時には鷹狩や花火などが行なわれました。また、幕末には園遊会も催され、その席に招かれた松平容保をはじめとする会津藩の人々は、邸内の様子を 「まるで桃源郷のようだ」 と表現しています。
 なお、当邸が中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代時に前田家の藩主が休息をとり、江戸へ出入する際の装束替えの場としても利用されました・また、その家族や家臣による送迎の場にもなっていました。
 邸内には与力を筆頭に50人ほどの詰人がおり、その大半は定番足軽と呼ばれ、ここを管理していました。彼らは代々平尾邸に在番し、板橋宿や蓮沼村をはじめとする板橋区周辺地域の名主などの娘と婚姻関係を結ぶ人もいました。なかには板橋宿の寺子屋の師匠として、地域の教育にあたるなど、地元板橋との密接な関わりが見られます。
 幕末になると、加賀藩も世情の影響を受け、邸内でオランダ式ゲベール銃を使った調練を実施しています。また、石神井川の水流を利用して大砲の製造を行なっています。明治期以降には、平尾邸の大半は、同じく石神井川の水流を利用し火薬を製造する、板橋火薬製造所(後の東京第二陸軍造兵廠)となります。
 なお、現在、平尾邸の面影は、わずかにここ加賀公園に残る築山の一部だけとなっています。
(板橋区教育委員会)

加賀前田家下屋敷跡説明

板橋区史跡加賀前田家下屋敷跡碑

加賀前田家下屋敷の築山跡

 区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
 この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
 戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=二造)内におかれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行なわれていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径686㎜のコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
 これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前の二造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向かって撃ち込まれていたことが分かります。
 戦後、旭化成などの創業者である野口遵が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。

築山に造られた弾道検査管の標的

加賀緑橋下流域

両岸に桜並木の遊歩道があり、下流の金沢橋が見えている

加賀緑橋上流域

両岸に桜並木の遊歩道があり、微かに加賀橋が見えている

加賀緑橋(かがみどりばし)橋標

火薬研究所跡地

火薬研究所跡地

弾道検査管(爆速測定管)の標的説明

南詰から見た加賀緑橋

北詰めにあるカモのモニュメント 「やすらぎの水辺」

下流右岸から見た加賀緑橋