1.赤塚溜池公園周辺(赤塚5丁目)
2.板橋
3.いたばし花火大会(荒川河川敷)
4.志村一里塚(志村1丁目)
5.石神井川の桜並木(石神井川沿い)
6.松月院(赤塚8丁目)
7.田遊び(徳丸北野神社/徳丸6丁目)
  田遊び(赤塚諏訪神社/大門)
8.高島平団地とけやき並木(高島平2・3丁目)
9.東京大仏(乗蓮寺/赤塚5丁目)
10.南蔵院のしだれ桜(蓮沼町)

この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
 板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2㎞)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌 「江戸名所図会」 の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
 江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の2度修復が行なわれたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架け替えられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架け替えられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架け替えられたものです。
(板橋区教育委員会)

旧流路の石神井川緑道

旧流路の石神井川緑道

板橋十景碑

板橋上流域

桜の枝が張り出しており、上流の新板橋は見えない

板橋橋標(親柱)

板橋下流域

下流で北東に曲がっており、僅かに番場橋が見えている

「距日本橋二里二十五町三十三間」 標柱と板橋説明板

下流右岸から見た板橋

北詰めから見た板橋

いたばし橋標(親柱)