昭和24・25年の群馬県岩宿遺跡の調査で、赤土の中から石器が発見され、縄文時代よりも古い先土器時代(旧石器時代)と呼ばれる時代が日本にも存在したのではないかという可能性が提起されました。翌年(昭和26年)3月、瀧澤浩氏(考古学者・当時中学生)がこの地域の茂呂山(正確には 「オセド山」 という。)の道路の切通しから黒曜石製石器一点と礫群を発見したことを受けて、同年7月の明治大学と武蔵野郷土館が実施した共同発掘調査で、関東ローム層中から石器群が確認されました。
 これら石器群は南関東地方における旧石器時代資料の初例となるもので、茂呂遺跡の調査は、日本列島においてローム層中に旧石器文化が普遍的に存在することを実証しました。とりわけ出土したナイフ形石器は 「茂呂型ナイフ形石器」 と命名され、茂呂遺跡は旧石器時代の標識遺跡として知られています。東京だけでなく日本列島の旧石器時代を解明した記念すべき遺跡です。
(東京都教育委員会)

茂呂遺跡説明

茂呂遺跡

昭和26年(1951)の石神井川対岸からみた茂呂遺跡

栗原橋の上流域

上流で西にほぼ直角に曲がっており、上流の橋は見えない

栗原橋橋標(親柱)

栗原橋下流域

左岸は桜川児童公園、右岸は茂呂遺跡で、下流に茂呂橋が見える

南詰から見た栗原橋

くりはらばし橋標(親柱)

下流左岸から見た栗原橋