金井原古戦場は、南北朝時代に起こった武蔵野合戦のひとつで、北朝の足利尊氏と南朝の新田義興・義宗兄弟の軍勢が激突した場所です。
 室町幕府の内部抗争に端を発した観応の擾乱の最中、観応2年(正平6年)(1351)に北朝の足利尊氏は、対立していた弟の直義を追討するため、南朝に降伏する形で講和する 「正平一統」 を行いましたが、翌年には南朝方の京都への進攻を機に、この講和は破綻します。時を同じくして、新田義貞の子、義興・義宗兄弟が、後醍醐天皇の皇子宗良親王を奉じて、関東で挙兵します。観応3年(正平7年)(1352)閏2月20日、新田兄弟は人見原(府中市)から金井原にかけての一帯で尊氏の軍勢と戦い、義宗が尊氏を打ち破ります。この時、尊氏は石浜(台東区)まで敗走しました。この金井原の地が、現在の小金井市前原町付近と考えられています。
 昭和34年、小金井市により、霊園通りと小金井街道の交差点に 「史跡金井原古戦場」 碑が建立されました。
  (東京都教育委員会)

金井原古戦場解説

金井原古戦場碑

上流域

下流域

新前橋が見えている

左岸は小金井自動車教習所である

丸山橋(まるやまばし)橋標

右岸下流から見た丸山橋

南詰から見た丸山橋