白髭神社
手水舎
境内社の三峰社と水神社
鷲津毅堂碑である。
毅堂は幕末明治の漢学であり、明治政府の要職を歴任している。
山玉向島講社の碑で奉納基本金、大正十一年、四代目先達玉山丈行、講元松本萬次郎、世話人二十二人が刻まれている。
山玉向島講社の碑で総勢82名の名前が刻まれている。
白髭大神碑
江戸時代末期の外交家岩瀬鷗所の墓碑である。
鷗所の本名は、忠震(ただなり)で嘉永2年(1849)に老中阿部正弘から目付に抜擢されている。漢学、蘭学を学び、当時、外国事情認識においては鷗所が一番と言われた。
慈恵大師が関東に下った時に近江国比良山麓に鎮座する白髭大明神の御分霊を祀ったことを刻んだ碑のようである。
境内社の諏訪社で社の中に諏訪大明神の石碑が安置されている。
天歴5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に近江国比良山麓に鎮座する白髭大明神の御分霊を祀ったと伝えられている。
祭神の猿田彦命は道案内の守り神ということから、お客を案内する千客万来、商売繁盛の信仰が生まれた。
「墨多三絶」 の碑である。
隅田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩歌で大窪詩仏が筆を執ったもので文政5年(1822)に建立されている。
本堂の御開帳は、正月1日~7日となっているため、ご本尊は拝めなかった。扉の前には瓶子が供えられていた。