江戸時代の享保7年(1722)に始まった武蔵野の新田開発は、凶作などにより開発が進まず農民は窮乏し、餓死者が続出していました。元文4年(1739)武蔵野新田世話役となった押立村(現在の府中市)名主川崎平右衛門は救助の食料、養料金(凶作に備えて各家から穀類3升、のちに5升を集め売却し、その代金を商人に貸付け、利息を農民に配当するという制度)肥料、種の支給や用水、井戸の工事などを行い、新田の安定をはかりました。
川崎平右衛門は寛保3年(1743)に支配勘定格となり寛延2年(1749)に美濃国(現在の岐阜県)へ支配替えとなった後、宝暦4年(1754)代官となりました。平右衛門のあとにこの地の代官となった伊奈半左衛門も、平右衛門の政策を継ぎ、さらに養料金制度を推し進めました。このため、武蔵野の開発は大いに進展し、その功績を記念するため、寛政11年(1799)榎戸新田名主源蔵らの主唱によって武蔵野新田八十数か村の感謝の結晶として建立されたものです。 国分寺市教育委員会

妙法寺本堂

本堂に掛かる妙法寺の扁額

山門に掛かる瑞雲山の扁額

六地蔵尊が刻まれた三界萬霊塔

川崎・伊奈両代官謝恩塔

青面金剛の庚申塔

川崎・伊奈両代官謝恩塔解説

鐘楼