伊庭家は近江守護佐々木家の流れをくむ名家である。屋敷は中山道沿いに長屋門を構え、広大な屋敷を有していたが、近年建物は解体され、楠の巨木が往時を偲ばせる。伊庭貞剛は、ここ蒲生郡西宿村(現近江八幡市西宿)の出身である。生出は弘化4年(1847)1月5日。文久元年(1861)15歳の時、八幡町児島一郎の道場に通って剣を学び、21歳で免許皆伝を許されている。また、文久3年(1863)尊王家西川吉輔の門に入る。
 明治元年(1868)22歳の時、西川吉輔に招かれて上京し、京都御所警備隊士となる。さらに、同7年北海道函館裁判所に勤務。明治10年、大阪上等裁判所に判事として転任するが、明治政府の方針に期待を持てず裁判所を辞めた後、明治12年、大阪住吉にいた叔父広瀬宰平の薦めにより、住友家に入社し明治13年には大阪本店の支配人となる。
 明治27年(1894)煙害問題解決のために、決意して四国別子銅山支配人として赴任。当時、新居浜は、精錬所の煙突から出る亜硫酸ガスが周辺の農作物に害を及ぼす深刻な事態になっていた。彼は精錬所を沖合いの四阪島に移転する計画を進める一方、荒廃した別子銅山周辺の山々に一大植林計画を立てて実行に移し、着任5年目の明治32年、精錬所の移転や植林に目途をつけ別子を離れる。
 明治33年(1900)住友家総理事に就任するが、58歳の若さですべての職を辞し、石山に 「活機園」 を建てて隠退する。大正15年(1926)10月23日に80歳の生涯を閉じ、故郷西宿に妻梅子とともに眠る。

伊庭邸屋敷図

伊庭貞剛翁生誕の地看板

伊庭貞剛邸説明

伊庭邸跡

いばecoひろば碑

楠の巨木が往時を偲ばせる