武佐町会館建設用地について

 長享元年(1478)、近江源氏の主流である佐々木一族が、現在の東近江市古脇町より近江八幡市金剛寺に金剛寺城を築城した後、それに伴い移住した佐々木一族の家人である谷家の分家が、現在の東近江市中野町今堀よりこの地に御屋敷と云われる 「谷殿館」 が造られ繁栄する。(今も御屋敷の地名は残っている)
 その後、徳川時代に入り武佐宿繁栄の折は、奥村三郎左衛門が脇本陣として使用し、これまた繁盛する。
 明治元年(1868)、文明開化の時代に入り、時の新政府の方針で町村制が実施、整理統合され、「武佐・西生来・長光寺・西宿・友定・御所内・南野(現末広)」 と、少し遅れて 「野田村」 の8ヶ村が合併し新しく組織化され、明治22年(1889)4月、蒲生郡武佐村が誕生し、明治40年(1907)8月武佐村役場が、この地に新設運営されて来た。その後、昭和33年(1958)戦後第一次町村合併まで使用される。
 合併と同時に近江八幡市所有地となるが、平成11年に国道421号線(八風街道)歩道改良工事の為、旧武佐町会館跡地とこの地の一部を等価交換して頂き、平成12年、武佐町住民各位のご支援、協力に基づき現在の武佐町会館が建設されたものです。

武佐会館

武佐会館前の馬頭観世音

愛宕山

牟佐宿脇本陣跡

愛宕山常夜燈