この建物は、正面柱間1.32mの一間社流造、檜皮葺の建物です。建立年代は明らかでありませんが、舟肘木、向拝の木鼻、連三斗組の組物んぉ部分的な特徴や、全体の様子から桃山時代に建立されたものと考えられます。安政7年(1860)と明治13年(1880)にそれぞれ修理の記録があります。
 後世修理を受けながらも、要所に当初材をよく残し、軒の出も深く、外観の整った桃山時代の境内社本殿として価値の高い建物です。
 (安土町教育委員会)

 三間社流造の庇の間に建具を設けて前室とし、さらに向拝をつける形式は滋賀県に中世の遺構が多く古式の流造がひときわ優美に発達したものです。
 この本殿は天正9年(1581)の再建で、庇の間は開放していますが中世に発達した形式を踏襲しており、唐草模様を透彫りした蟇股や彫刻をほどこした手挟、あるいは母屋の腰廻りの嵌板(はめいた)に配列した格狭間など、各所に華麗な装飾をつけた当代第一級の本殿建築です。
 本殿の再建は織田信長が城下町を形成する施策に関連したものと考えられ、棟札はその考証の好資料となりますので、銘文を左記に記載しました。
江州佐々木御庄内老蘇村御社建、天正9年正月26日
願主者柴田新左衛門尉家久美州西方池尻住人也、天正9年辛巳書之華
 (近江八幡市)

 古来老蘇の森一帯は蒲生野と讃えられ老蘇・武佐・平田・市辺の4ヶ村周辺からなる大森林があった。今なお近在に野神さんとして祀られる大杉が老蘇の森の樹齢に等しいところからも既に想像されるが、現在は奥石神社の鎮守の森としてその名を留めるのみで、面積は60反歩を有し松・杉・桧等が生い茂っている。
 奥石神社本紀によれば、昔この地一帯は地裂け水湧いて人住めず、7代孝霊天皇の御字石辺大連翁等住人がこの地裂けるを止めんとして神助を仰ぎ、多くの松・杉・桧の苗を植えしところ、不思議なる哉たちまちのうちに大森林になったと云われている。
 この大連翁は齢百数十歳を数えて尚雙鑲と壮者を凌ぐ程であったので、人呼んで 「老蘇」 といい、この森を老蘇の森と唱え始めたとある。また大連はこの事を悦び社壇を築いたのが奥石神社の始めと伝えられている。

奥石神社境内社諏訪社本殿説明

老蘇の森由来

奥石神社本殿(重要文化財)説明

奥石神社本殿

天正9年(1581)の造りで国指定重要文化財

奥石神社本殿

吉住大明神社殿

桃山時代の造りで安土町指定文化財

諏訪大明神

祈願所入口

夜半ならば 老蘇の森の郭公 今もなかまし 忍び音のころ

参道脇の吉住大明神

安産守護 鎌宮標柱

拝殿

吽形の狛犬

山灯籠

御神木

老蘇森碑

神門

舞殿

神庫

東参道から見た老蘇の森

本居宣長歌碑

阿形の狛犬

手水舎

杉木立の参道