文政12年(1829)町人成宮弥次右衛門ら4名が、愛知川に無賃橋を企画。天保2年(1831)完成。交通手段の維持が、幕府や領主ではなく、町人の手にゆだねられはじめた。
 むちんばし―この橋は無料で渡ることができる橋。旅人も在所の人も、ありがたかった。嬉しかった。本来、橋を架けることを許さなかったのが、幕府の政策だった。川が増水すると、人々はたちまち足留めされる。人夫や舟を使えば、銭が出ていく。ほとんどの人は、裾をまくって渡河していく。これは楽なことではなかった。
 むちんばし―橋の畔で、人ばかりか、牛や猿までも、はしゃいでいるようだ。あの珍道中の弥次さん喜多さんも、江戸への帰りは、ここを通ったとか。
 むちんばし―以来、何度か姿を変えた。架けかえる度に、橋の位置も変わる。橋の畔の常夜燈も、その位置を変えていく。そんなところに、時の流れを思う人もいる。

 「旅人をあはれみかけてむちんばし、ふかき心を流す衛知川」 西園寺藤原実文。
 この歌は成宮家に家宝として伝わる一部。鈴鹿山系の水を集める幅230余mの愛知川は、出水すると 「人取り川」 の異名のとおり、通行する旅人を困らせた。愛知川に橋が架かっていなかった頃、旅人は 「渡し」 を利用していた。このため、夜間の愛知川を照らし、旅人の水難防止と安全を守るため、約50名の寄進者によって常夜燈が設けられた。
 また、町人、成宮弥次右衛門(1781-1855)は、4名の同志とともに、川を安全に渡れるよう、彦根藩に橋の建設を申し出たのである。
 これが文政12年(1829)のことで、以来3年の歳月を経て、天保2年(1831)に完成したのが前身の無賃橋である。
 当時の渡り橋は通行料を支払うのが普通だったが、慈善事業のため無賃とし、多くの旅人に喜ばれた。歌川広重の木曽街道69次之内にも 「恵智川」 「むちんはし」 として描かれ、後世にその篤行を伝えている。
 御幸橋はこうした歴史を秘めて昭和36年(1961)、国道8号の新設とともに誕生した。明治11年(1878)秋、天皇巡幸の際、建設した木橋から数えて5代目の橋である。

愛知川に架かる御幸橋

むちん橋説明

広重画 木曽海道六十九次之内 恵智川